ミニ講座






                    〔焦らず 怒らず 怠らず〕


            過去のミニ講座 平成22年7月 



     霊界叢談           自観叢書第3編『霊界叢談』昭和24(1949)年8月25日発行

    序  文

 この著は私が二十数年間にわたって探究し得た霊界の事象を、出来るだけ正確を期し書いたもので、も

ちろん作為や誇張などはいささかもないつもりである。

 そもそも今日学問も人智も進歩したというが、それは形而下の進歩であって、形而上の進歩は洵(まこ

と)に遅々たるものである。文化の進歩とは形而上も形而下も歩調を揃えて進みゆくところに真の価値が

あるのである。文化が素晴しい進歩を遂げつつあるに拘わらず、人間の幸福がそれに伴わないという事

は、その主因たるや前述のごとく跛行的進歩であるからである。これを言い換えれば体的文化のみ進ん

で、霊的文化が遅れていたからである。

 この意味において私は、霊的文化の飛躍によって、人類に対し一大覚醒を促がさんとするのである。と

はいえ元々霊的事象は人間の五感に触れないものであるから、その実在を把握せしめんとするには非常な

困難が伴うのである。しかしながら無のものを有とするのではなく、有のものを有とする以上、目的を達

し得ない筈はないと確信するのである。

 そうしてこの霊的事象を信ずる事によって、いかに絶大なる幸福の原理を把握し得らるるかは余りにも

明らかである。故にいかなる信仰をなす場合においても、この霊的事象を深く知らない限り真の安心立命

は得られない事である。それについて稽(こた)うべき事は、人間は誰でも一度は必ず死ぬという判り切

った事であるに拘わらず、死後はどうなるかという事はほとんど判り得なかった。考えてもみるがい

い、人間長生きをするとしてもせいぜい七、八十歳位までであろうが、それで万事お終いであっては実に

儚ない人生ではないか、これは全く死後霊界生活のある事を知らないからの事で、この事を深く知り得た

としたら、人生は生くるも楽しく死するも楽しいという事になり、永遠の幸福者たり得る訳である。

 以上述べたごとき意味においてこの著をかいたのである。



    霊界の存在

 そもそも、人間は何がためにこの世に生まれて来たものであろうか。この事をまず認識せね

ばならない。それは神は地上経綸の目的たる理想世界を建設せんがため人間を造り、それぞれの使命を与

え、神の意図のままに活動させ給うのである。原始時代から今日のごとき絢爛(けんらん)たる文化時代

に進展せしめたのも、現代のごとき人間智能の発達もそれがために外ならない。そうして人間なる高等生

物は素より、他のあらゆる生物否植物、鉱物、その他形体を有する限りのあらゆる物質は霊と体の二要素

によって形成されたものであって、いかなる物といえども霊が分離すれば亡滅するのであるが、ここでは

人間のみについて説明してみよう。そもそも人間の肉体は老衰、病気、大出血等によって使用に堪え得な

くなった場合霊は肉体を捨てて離脱し、霊界に赴き霊界人となり霊界生活が始まるのである。これ

は世界いかなる人種も同様で、その例として第一次欧州大戦後英国において当時の紙価を高からしめたオ

リヴァー・ロッジ卿の名著「死後の生存」であるが、その内容は著者ロッジ卿の息子が欧州戦争に出征

し、ベルギーにおいて戦死し、その霊が父ロッジ卿に対し種々の手段をもって霊界通信をおびただしく贈

った、それの記録であって、当時各国人は争って読み、それが動機となって霊界研究は俄然として勃興

し、研究熱が盛んになると共に、優秀なる霊媒も続出したのである。また彼の有名なるベルギーの文豪青

い鳥の著者故メーテルリンク氏も心霊の実在を知って、彼の有名なる運命観は一変し、心霊学徒として熱

心な研究に入ったという事は、その方面に誰知らぬ者もない事実である。しかもその後フランスのワード

博士の名著霊界探検記が出版され、心霊研究はいよいよ盛んになったという事である。ワード博士に到っ

ては霊界探究がすこぶる徹底的で、同博士は一週に一回一時間位、椅子に座したまま無我の境地に入り、

霊界へ赴くのである。その際博士の伯父の霊が博士の霊を引連れ霊界のあらゆる方面に対し、つぶさに霊

界の実相を指示教導されて出来た記録であるが、その際友人知己の霊も種々の指導的役割をなし、博士の

霊界知識を豊富にしたという事である。これはなかなか興味もあり、霊界生活を知る上において大いに参

考になるから、読者は一度読まれん事を望むのである。もちろん西洋の霊界は日本とは余程相違のある点

はやむを得ないが、私は最後において、日本及び泰西(たいせい)における霊界事象を種々の実例をもっ

て解説するつもりである。

 十数年前、英国よりの通信によれば同国においては数百の心霊研究会が生まれて盛んに活動しつつある

事や、心霊大学まで創設されたという事を聞及んでいたが、その後大戦のためいかようになったか、今日

の実状を知りたいと思っている。

 さて霊界の種々相について漸次説いてみよう。



    霊界と現界

 そもそも、宗教に関心を持つ場合まず徹底的に理解するには、どうしても霊界と現界との関係を知

らねばならない。何となれば宗教信仰の対象は神仏であり、神仏とは霊であるからで肉眼では見る能わざ

る以上、理論のみによって実態を把握せんとしてもそれは木によって魚を求むるの愚である。しかしなが

この世界には神も仏も立派に実在している以上、否定し去る事ももちろん不可能である。ちょうど野蛮

人に向かって空気の存在を認識させようとしてもすこぶる困難であると同様現代人の大多数に霊の実在を

認識させる事の困難さはもちろんである。私はまず前提として霊界の構成、霊界人の生活等にわたってな

るべく深く説明してみよう。

 そもそも人間とは肉体霊体との二原素から成立っており、人間が死するや霊肉離脱し霊は直ちに霊界

に入り霊界生活が始まるが、離脱の場合極善者は額から極悪者は蹠(あし)の爪先から一般人は腹部

の中央臍部辺から霊は脱出するのであって、仏教においては死ぬ事を往生というが、これは霊界からみれ

ば生まれ往く訳だからである。また死ぬ前を生前といい神道にては帰幽といい転帰というのも同様の理で

ある。そうして、霊界人となるや昔から言われている通り、まず三途の川を渡り閻魔の庁に行くのである

が、これは事実であって私が多数の霊から聞いたそれは一致している。閻魔の庁とは現界における法廷と

同じである。しかも三途の川を渡り終るや屍衣の色が変化する。すなわち罪穢の最も少なきものは白、次

は各薄色、青、黄、赤、黒というように、罪穢の軽重に従い右のごとき色彩となるのである。ただ紫だけ

は神衣としてある。閻魔の庁においては祓戸(はらいど)の神が主任となり、各冥官が審問に当たり、そ

れぞれ相応の賞罰を決めるのであるが、その際極善人は天国または極楽に、極悪人は地獄へ堕つるのであ

って、普通人は中有界(ちゅうゆうかい)、神道にては八衢(やちまた)、仏教にては六道の辻と称する

所に行くのであるが、大多数はこの中有界に行き、ここで修行するのである。修行を受ける第一は教誨師

の講話を聞くので、それによって改心の出来たものは天国へ行き、しからざるものは地獄行きとなるので

ある。右の修養期間は、大体三十年を限度とし行き先が決まるのである。教誨師は各宗教の教師が当たる

事になっている。 

 ここで霊界の構成についてかくが、霊界は上中下の三段階になっている。その一段はまた三段に分け

られ合計九段階である。すなわち上段が天国、中段が中有界、下段が地獄となっており、現界は中有界に

相当する故に、仏語の六道辻とは極楽の三道、地獄の三道へ行く訳で、神道の八衢とは右のほかに、上は

最高天国、下は根底の国が加わるのである。そうして天国と地獄の様相を端的に説明すれば、最高天国に

昇る程光と熱が強烈になり、ほとんど裸体同様の生活であって、昔から絵画彫刻に見るごとく至尊仏は裸

体である。これに反し最低地獄に落つる程光と熱が稀薄となり、極最低は暗黒、無明、凍結状態である。

故にこの苦しみにあうや、いかに極悪非道の霊といえども改心せざるを得ないのである。以上はごく大体

の説明であるが、現代人が見たら荒唐無稽の説と思うかも知れないが、私は二十数年にわたり多数の霊か

ら霊媒を通じ、または他のあらゆる方法によって調査研究し、多数の一致した点をとって得たところの解

説であるから、読者におかれても相当の信頼をもって読まれん事を望むのである。彼の釈尊の地獄極楽説

も、ダンテの神曲も決して作為的のものではない事を、私は信ずるのである。

 右のごとく、上中下三段階へ往く霊に対し、死人の面貌を見ればおよそ判るのである。すなわち、なん

ら苦悶の相がなく鮮花色を呈しさながら生けるがごときは天国行きであり、陰欝なる淋しき面貌をし蒼白

色、黄青色、つまり一般死人の状態は中有界行きであり、苦悶の相著しく、暗黒色または青黒色を呈する

ものは、もちろん地獄行きである。

 以上は、霊界における基礎的知識を得るためのものであるが、順次各面にわたっての私の経験によって

得たる霊的事象を書いてみよう。



   祖霊と死後の準備      

抑々死に際し霊体離脱の状態は如何といふに、之に就て或看護婦が霊視した手記が相当よく書いてある

から記してみよう。

之は西洋の例であるが人によって霊の見える人が西洋にも日本にも偶々あるのである。私は悉しい事は

忘れたが、要点だけは覚えてゐるがそれは斯うである。私は或時、今や死に垂んとする病人を凝視して

ゐると、額の辺から一条の白色の霧の様なものが立昇り、空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうする

裡に、雲烟の如き一つの大きな不規則な塊のやうなものになったかと思ふと、間もなく而も徐々として人

体の形状の如くなり、数分後には全く生前そのままの姿となって空間に起ち、凝っと自己の死骸を見詰め

て居り、死体に取ついて悲歎にくれてゐる近親者に対し、自分の存在を知らしたいような風に見えたが、

何しろ幽冥所を異にしてゐるので諦めたか、暫くして向直り窓の方に進んでゆき、いとも軽げに外へ出て

行ったといふのであるが、之は全く死の刹那をよく表はしてゐる。

右手記は一般人の生から死への転機の状態であるが、西洋の霊界は平面的であり、東洋の霊界は立体的

である。之は日本は八百万の神があり、大中小上中下の神社があり、社格も官幣、中幣、県社、郷社、村

社等、種々あるによってみても如何に階級的であるかが知らるゝのである。之に反し西洋はキリスト教一

種といっても可いのであるから、全く経と緯の相違である事は明かである。故に前者は多神教で後者は一

神教といふのである。

次に人の死するや、仏教に於ては四十九日、神道に於ては五十日祭を以って一時打切りにするが、それ

はその日を限りとして霊界へ復帰するのである。それ迄霊は仏教にては白木の位牌、神道にては麻で造っ

た人形の形をした神籬(ヒモロギ)といふものに憑依してゐるのである。茲で注意すべきは、死者に対し悲し

みの余りなかなか忘れ得ないのが一般の人情であるが之は考へものである。何故なればよく謂ふ"往く所

へ往けない"とか"浮ばれない"とかいふのは、遺族の執念が死霊に対し引止めるからである。故に先づ百ケ

日位過ぎた後は成可忘れるやうに努むべきで、写真なども百ケ日位まで安置し、其後一旦撤去した方がよ

く、悲しみや執着を忘れるようになった頃又掛ければ可いのである。

次に仏壇の意義を概略説明するが、仏壇の中は極楽浄土の型であって、それへ祖霊をお迎へするので

ある。極楽浄土は百花爛漫として香気漂ひ、常に音楽を奏し飲食裕かに諸霊は歓喜の生活をしてゐる。そ

れを現界に映し華を上げ、線香を焚き、飲食を饌供するのである。又鐘は二つ叩けばよく、之は霊界に於

る祖霊に対し合図の意味である。之を耳にした多数の祖霊は一瞬にして仏壇の中へ集合する。然し此事は

何十何百といふ祖霊であるから、小さな仏壇の中へ如何にして併列するか不思議に思ふであらうが、実は

霊なるものは伸縮自在にして、仏壇等に集合する際は其場所に相応するだけの小さな形となるので、何段

もの段階があって、それに上中下の霊格の儘整然と順序正しく居並び、人間の礼拝に対しては諸霊も恭し

く会釈さるゝのである。そうして飲食の際は祖霊はそのものゝ霊を吸収するのである。然し霊の食料は非

常に少く、仏壇に上げただけで余る事があるから、余った飲食は地獄の餓鬼の霊に施すので、その徳によ

って祖霊は向上さるゝのである。故に仏壇へは出来るだけ、平常と雖も初物、珍らしき物、美味と思ふも

のを一番先に饌供すべきで昔から孝行をしたい時には親はなしといふ諺があるが、そんな事は決してな

。寧ろ死後の霊的孝養を尽す事こそ大きな孝行となるのである。勿論墓参法事等も祖霊は頗る

喜ばれるから、遺族又は知人等も出来るだけ供養をなすべきで、之によって霊は向上し、地獄から脱出す

る時期が促進さるゝのである。

世間よく仏壇を設置するのは長男だけで、次男以下は必要はないとしてあるが、之は大きな誤りであ

る。何となれば両親が生きてゐるとして、長男だけが好遇し、次男以下は冷遇又は寄付けさせないとした

ら、大なる親不幸となるではないか。そういふ場合霊界にをられる両親は気づかせようとして種々の方法

をとるのである。その為に病人が出来るといふ事もあるから注意すべきである。

今一つ注意すべきは改宗の場合である。それは神道の何々教に祀り替えたり、宗教によっては仏壇

を撤去する事があるが、之等も大いなる誤りである、改宗する場合と雖も、祖霊は直ちに新しき

宗教に簡単に入信するものではない。恰度生きた人間の場合家族の一員が改宗しても他の家族悉くが直ち

に共鳴するものではないと同様である。此為祖霊の中では立腹さるゝものもある。叱責の為種々の御気附

けをされる事もあるそれが病気災難等となるから、此一文を読む人によっては思ひ当る節がある筈であ

る。

茲で霊界に於る団体の事をかいてみよう。霊界も現界と等しく各宗各派大中小の団体に分れてゐる。仏

教五十数派、教派神道十三派及び神社神道、キリスト教数派等々それぞれ現界と等しく集団生活があって

死後、霊は所属すべき団体に入るがそれは生前信者であった団体に帰属するのである。然るに生前何等信

仰のなかった者は所属すべき団体がないから、無宿者となって大いに困却する訳であるから生前信頼すべ

き集団に所属し、死後の準備をなしおくべきである。

之に就て斯ういふ話がある。以前某所で交霊研究会があった際、某霊媒に徳富蘆花氏の霊が憑った。そ

こで真偽を確める為蘆花夫人を招き鑑定させた処、慥かに亡夫に違ひないとの證言であった。其際種々の

問答を試みた処、蘆花氏の霊は殆んど痴呆症の如く小児程度の智能で、立合ったものは其意外に驚いたの

である。それは如何なる訳かといふと、生前に於て死後を否定し信仰がなかったからで、生前トルストイ

の人道主義に私淑し、人間としては尊敬すべき人であったに拘はらず右の如きは全く霊界の存在を信じな

かったからである。



    死後の種々相

 死にも種々あるが、脳溢血や卒中、心臓麻痺、変死等のため、突如として霊界人となる場合があるが、

何も知らない世人は病気の苦痛を知らないからむしろ倖せであるなどというが、これらは非常な誤りで実

この上ない不幸である。それは死の覚悟がないため霊界に往っても自分は死んだとは思わず相変らず生

きていると想っている。しかるに自分の肉体がないので、遮二無二肉体を求める。その場合自己に繋って

いる霊線をたどるのである。霊線は死後といえども血族の繋りがあるから、霊はそれを伝わり人間に憑依

しようとするが、憑依せんとする場合衰弱者、産後貧血せる婦人、特に小児には憑依しやすいので多くは

小児に憑依する。これが真症小児麻痺の原因であり、また癲癇(てんかん)の原因ともなるので、小児麻

痺は脳溢血のごとき症状が多いのはそのためであり、癲癇は死の刹那の症状が表われるのである。例えば

泡を吹くのは水死の霊であり、火を見て発作する火癲癇は火傷死であり、その他変死の状態そのままを表

わすもので夢遊病者もそうであり、精神病の原因となる事もある。

 次に変死について知りおくべき事がある。それは他殺自殺等すべて変死者の霊は地縛(じばく)の霊

と称し、その死所から暫くの間離脱する事が出来ないのである。普通数間または数十間以内の圏内にいる

が、淋しさの余り友を呼びたがる。世間よく鉄道線路などで轢死者が出来た場所、河川に投身者のあった

その岸辺、縊死者のあった木の枝等よく後を引くが右の理によるのである。地縛の霊は普通三十年間その

場所から離れない事になっているが、遺族の供養次第によっては大いに短縮する事が出来得るから、変死

者の霊には特に懇(ねんご)ろなる供養を施すべきである。そうしてすべての死者特に自殺者のごときは

霊界に往っても死の刹那の苦悩が持続するため大いに後悔するのである。何となれば霊界は現界の延長で

あるからである。

 この理によって死に際し、いかなる立派な善人であっても苦痛が伴う場合中有界または地獄に往くので

ある。また生前孤独の人は霊界に往っても孤独であり、不遇の人はやはり不遇である。ただ特に反対の場

合もある。それはいかなる事かというと、人を苦しめたり、吝嗇(りんしょく)であったり、道に外れた

事をして富豪となった人が霊界に往くや、その罪によって反対の結果になる。すなわち非常な貧困者とな

るので大いに後悔するのである。これに反し現界にいる時、社会のため人のために財を費やし善徳を積ん

だ人霊界に往くや分限者となり、幸福者となるのである。またこういう事もある。現界において表面は

いかに立派な人でも、霊界に行って数ケ月ないし一ケ年位経るうちにその人の想念通りの面貌となるので

ある。なぜなれば霊界は想念の世界で肉体という遮蔽物(しゃへいぶつ)がないから、醜悪なる想念は醜

悪なる面貌となり、善徳ある人はその通りの面貌となるのでこれによってみても現界と異なっている事が

知らるるのである。全く霊界は偏頗(へんぱ)がなく公平であるかが知られるのである。

 以前こういう例があった。その当時私の部下に山田某という青年があった。ある日彼は私に向かって

「急に大阪へ行かなければならない事が出来たから暇をくれ」というのである。見ると彼の顔色挙動等普

通ではない。私はその理由を質(たず)ねたが、その言語は曖昧不透明である。私は霊的に査(しら)べ

てみようと思った。その当時私は霊の研究に興味をもちそれに没頭していたからである。まず彼を端座瞑

目させて霊査法にかかるや、彼は非常に苦悶の形相を表わしノタ打つのである。私の訊問に応じて霊の答

は次のごときものである。「自分は山田の友人の某という者で、大阪の某会社に勤務中、その社の専務が

良からぬ者の甘言を信じ自分をクビにしたので、無念遣る方なく悲観の結果服毒自殺したのである。しか

るに自分は自殺すれば無に帰すると想っていたところ、無になるどころか死の刹那の苦悩がいつまでも持

続しているのであまりの予想外に後悔すると共に、これも専務の奴がもとであるから、復讐すべく山田を

して殺害させようと思い、自分が憑依して大阪へ連れて行こうとしたのである」この言葉も苦悶の中から

途切れ途切れに語った。なお彼は苦悩を除去してもらいたいと懇願するので、私はその不心得を悟し苦悩

の払拭法を行うや、霊は非常に楽になったと喜び厚く謝し、兇行を思い止る事を誓い去ったのである。

 右憑霊中山田は無我であったから、自己の喋舌(しゃべ)った事は全然知らなかった。覚醒後私が霊の

語ったままを話すと驚くと共に、危険の一歩手前で救われた事を喜んだのであった。

 これによってみても人間はいかなる苦悩にあうも、自殺は決して為すべからざるものである事を識るべ

きである。

 特に世人の意外とするところは情死である。死んで天国へ行き蓮の台に乗り、たのしく暮そうなどと

思うがこれは大違いである。それを詳しくかいてみよう。

 抱き合心中などは霊界へ往くや、霊と霊とが密着して離れないから不便この上なく、しかも他の霊に対

し醜態を晒すので後悔する事夥(おびただ)しいのである。また普通の情死者はそのその際の想念と行動

によって背と背が密着したり、腹と背が密着したりしてすべての自由を欠き、不便極まりないのである。

また生前最も醜悪なる男女関係、世にいう逆様事などした霊は逆さに密着し一方が立てば一方は逆さとな

るというように不便と苦痛は想像も出来ない程である。その他人の師表(しひょう)に立つべき僧侶、神

官、教育者等の男女の不純関係のごときは、普通人より刑罰の重い事はもちろんである。



    天国と地獄

 天国はさきに述べたごとく上位の三段階になっており、第一天国、第二天国、第三天国がそれである。

第一天国は最高の神々が在(おわ)しまし、世界経綸のため絶えず経綸され給うのである。第二天国は第

一天国における神々の補佐として、それぞれの役目を分担され給い第三天国に至っては多数の神々が与

えられたる任務を遂行すべく活動を続けつつあるが、もちろん全世界あらゆる方面にわたっての活動であ

るからその行動は千差万別である。第三天国の神々は中有界から向上し神格を得たのであるから人間に最

も近似しており、エンゼル(天使)ともいわるるのである。

 右は神界構成の概略であって、神界は今日まで約三千年間、仏教の存在する期間ははなはだ微々たる存

在であった。何となれば神々はほとんど仏と化現され、そうでないのはほとんど龍神となって時を侍って

おられたのである。また神々は仏界を背景として救いの業に励(いそ)しみ給うたのでその期間が夜の時

であって昼の時代に転換すると同時に神界は復活するという訳である。

 次に、極楽浄土は仏語であって仏界の中に形成されているが、極楽における最高は神界における第二天

国に相応し、仏説による都〔兜〕率天がそれである。そこに紫微宮(しびきゅう)があり、七堂伽藍(し

ちどうがらん)があり、多宝塔が整え立ち、百花爛漫として咲き乱れ、馥郁(ふくいく)たる香気漂い、

迦陵頻伽(かりょうびんが)は空に舞い、その中に大きな池があって二六時中蓮の葉がうかんでおり、緑

毛の亀は遊嬉(ゆうき)し、その大きさは人間が二人乗れる位で、それに乗った霊の意欲のまま、自動的

にどこへでも行けるのであって、何ともいえぬたのしさだという事である。また大伽藍があってその中に

多数の仏教信者がおり、もちろん皆剃髪で常に詩歌管絃、舞踊、絵画、彫刻、書道、碁、将棋、等現界に

おけると同様の娯楽に耽っており、時折説教があってこれが何よりのたのしみという事である。その説教

者は各宗の開祖、例えば法然、親鸞、蓮如、伝教、空海、道元、達磨、日蓮等である。そうして右高僧等

は時々紫微宮に上り、釈尊に面会され深遠なる教法を受け種々の指示を与えらるるのである。紫微宮の

ある所は光明眩(まばゆ)く、極楽浄土に救われた霊といえども仰ぎ見るに堪えないそう

である。

 極楽の下に浄土があって、そこは阿弥陀如来が主宰されているが、常に釈迦如来と親しく交流し、仏界

の経綸について語り合うのである。また観世音菩薩は紫微宮に大光明如来となって主座を占められ、地上

天国建設のため釈迦阿弥陀の両如来補佐の下に、現在非常な活動をされ給いつつあるのである。しかしな

がら救世の必要上最近まで菩薩に降り、阿弥陀如来に首座を譲り給うたのである。


 そうして近き将来、仏界の消滅と共に新しく形成さるる神界準備のため、各如来、菩薩、諸天、尊者、

大士、上人、龍神、白狐、天狗等々漸次神格に上らせ給いつつ活動を続け、すこぶる多忙を極められつつ

あるのが現状である。

 次は地獄界であるが、これは天国とはおよそ反対で光と熱がなく下位に往く程暗黒無明の度を増す

である。地獄は昔から言われるごとく種々雑多な苦悩の世界で、私はその概略を解説してみよう。

 まずおもなる種類を挙げれば針の山、血の池地獄、餓鬼道、畜生道、修羅道、色欲道、焦熱地獄、蛇地

獄、蟻地獄、蜂室地獄等々である。

 針の山は読んで字のごとく無数の針が林立している山を越えるので、その痛苦は非常なものである。こ

の罪は生前大きな土地や山林を独占し、他人に利用させないためである。

 血の池地獄は流産や難産等出産に関する原因によって死んだ霊で、この種の霊を数多く私は救ったが、

それはすこぶる簡単で祝詞を三回奉誦し、幽世の大神様に御願する事によって即時血の池から脱出し救わ

れるので、大いに喜ぶのである。血の池地獄の状態を霊に聞いてみるとこうである。その名のごとく広々

とした血の池に首の付根まで何年も漬っている。その池の水面ではない血の面に無数の蛆が浮いており、

その蛆が絶えず顔面に這上ってくる。払っても祓っても這上ってくるので、その苦しみは我慢が出来ない

という事である。この原因は生前無信仰者にして、その心と行に悪の方が多かったためである。

 餓鬼道はその名のごとく飢餓状態で、常に食欲を満そうと焦燥している。それ故露店や店先に並んでい

る食物の霊を食おうとするが、これは盗み食いになり、一種の罪を犯す事になるので止むなく人間に憑依

したり、犬猫等に憑依し食欲を満そうとする。よく病人で驚く程食欲の旺盛なのがあるが、これは右に述

べたごとき餓鬼の霊が憑依したのである。また犬猫に憑依した霊は漸次畜生道に堕ちる。その場合人間の

霊の方が段々融け込んでゆく。ちょうど良貨が悪貨に駆逐されるように、ついに畜生の霊と同化してしま

うのである。この意味において昔から川施餓鬼などを行うがこれは水死霊を供養するためで、水死霊は無

縁が多いから供養者がなく、餓鬼道へ堕ちるので、餓鬼霊に食物を与え有難い経文を聞かせるので大きな

供養となるのである。

 餓鬼道に堕ちる原因は自己のみが贅沢をし他の者の飢餓など顧慮しなかった罪や、食物を粗末にした等

が原因であるから、人間は一粒の米といえども決して粗末にしてはならないのである。米という字は八十

八とかくが、これは八十八回手数がかかるという意味で、それを考えれば決して粗末には出来ないのであ

る。私も食後茶を呑む時茶碗の底に一粒も残さないように心掛けている。彼のキリスト教徒が食事の際合

掌黙礼するが、これは実によい習慣である。もちろん食物に感謝の意味で、人間は食物の恩恵を忘れては

ならないのである。

 畜生道はもちろん人霊が畜生になるので、それはいかなる訳がというと生前その想念や行為が人間放れ

がし、畜生と同様の行為をするからである。例えば人を騙す職業すなわち醜業婦のごときはとなり、妾

のごとき怠惰にして美衣美食に耽り男子に媚び、安易の生活を送るからとなり、人の秘密を嗅ぎ出し悪

事の材料にする強請(ゆすり)のごときものや、戦争に関するスパイ行為等、自己の利欲のため他人の秘

密を嗅ぎ出す人間はになるのである。しかし探偵のごとき世のために悪を防止する職業の者は別であ

る。そうして世の中には吝嗇一点張りで金を蓄める事のみ専念する人があるが、これはになるのであ

る。活動を厭い常にブラブラ遊んでいる生活苦のない人などはになるので、昔から子供が食後直

ちに寝ると牛になると親がたしなめるが、これは一理ある。また気性が荒く乱暴者で人に恐れられる、ヤ

クザ、ゴロツキ等の輩はになるただ温和(おとな)しいだけで役に立たない者はとなり、執

着の強い者はとなり、自己のためのみに汗して働く者はとなり、青年であって活気がなく老人のご

とく碌な活動もしない者はとなり、奸智に長けた狡猾な奴はとなり、情事を好み女でさえあれば矢

鱈(やたら)に手を付けたがる奴はとなり、向う見ずの猪突主義で反省のない者はとなり、また横

着で途呆けたがり人をくったような奴は(むじな)となるのである。

 しかし以上のごとく一旦畜生道に堕ちても、修行の結果再生するのである。人間が畜生道に堕ち再び人

間に生れまた畜生道に堕ちるというように繰返しつつある事を仏教では輪廻転生というがそれについて心

得なければならない事がある。例えば牛馬などが人間からみると非常な虐待を受けつつ働いているが、

の苦行によって罪穢が払拭され、再生の喜びを得るのである。今一つおもしろい事は牛馬は虐待される事

に一種の快感を催すので、特に鞭で打たれたがるのである。右のごとく人間と同様の眼で畜生を見るとい

う事は実は的外れの事が多いのである。その他盗賊の防止をする番犬、鼠をとる猫、肉や乳や卵を提供す

る牛や羊、豚、鶏等も人間に対し重要な役目を果すのであるからそれによって罪穢は消滅するのである。

 またおもしろい事には男女間の恋愛であるが、これは鳥獣の霊に大関係のある事で、普通純真な恋愛は

鳥霊がすこぶる多く鶯や目白等の小鳥の類から烏、鷺、家鴨(あひる)、孔雀等に至るまであらゆる種類

を網羅している。恋愛の場合、この鳥同志が恋愛に陥るのであるから、人間は鳥同志の恋愛の機関として

利用されるに過ぎない訳であるから、この場合人間様も少々器量が下る訳である。また狐霊同志の恋愛も

すこぶる多いがこれは多くは邪恋である。狸もあるがこれは恋愛より肉欲が主であって世にいう色魔など

はこの類である。また龍神の再生である龍女は精神的恋愛は好むが肉の方は淡泊で、むしろ嫌忌する位

で、不感症の多くはそれである。従って結婚を嫌い結婚の話に耳を傾けなかったり縁談が纏(まと)まろ

うとすると一方が病気になったり、または死に到る事さえあるが、これらは龍女の再生または龍神の憑依

せるためである。よく世間何々女史といい、独身を通しつつ社会的名声を博す女傑型は龍女が多く、稀に

は天狗の霊もある。

 以上のごとく霊界の構成や霊界生活、各種の霊について大体述べたつもりであるが、以下私の経験談を

かいてみよう。


  (中略)


    地獄界の続き

 次に他の地獄界は総括的に書く事にする。

 修羅道は、俗に修羅を燃やすという苦悩で例えば闘争に負け、復讐しようとして焦慮したり、自己の欲

望が満足を得られないために煩悶したりする心中の苦しみが生前からあったまま持続し、修羅道界に陥る

のである。これらは現界でも霊界でも信仰によって割合早く救われるものである。

 色欲道は読んで字のごとく色欲の餓鬼となったもので、男子にあっては多くの婦人を玩弄物視し、貞操

を蹂躙する事を何とも思わず、多数の婦人を不幸に陥れた罪によって陥るのである。このため地獄におい

ては生前騙され、酷い目に遇った女性群が責めたてる。その苦痛は恐ろしく、いかなる者といえども悔悟

せざるを得ないのである。そうしてこの苦痛たるや、生前罪を造っただけの女の数と、その罪の量とを償

うのであるから容易ではないのである。これによってみても世の男子たるもの、自己の享楽のため女性を

不幸に陥らしむるごとき行為は大に慎しまなければならないのである。右に述べたごとき罪は男子に多い

事はもちろんであるが、稀には女性にもあるので、自己の享楽または欲望のため貞操を売ったり、姦通を

したり、男性を悩ましたりする事を平気で行なう女性があるが、これらももちろん色欲道に堕ち苦しむの

である。

 焦熱地獄は放火をしたり、不注意のため大火災を起こし、多くの人命財産を犠牲に供する等の罪によっ

て落ちる地獄である。

 蛇地獄は無数の蛇が集って来るので、その苦痛たるや名状すべからざるものがある。この罪は自己の利

欲のため、多くの人間に被害を与える。例えば大会社の社長、銀行の頭取等が自己利欲のため不正を行

い、多数者に損害を与えたり、政治家が悪政によって人民を塗炭の苦しみに陥したりする怨みや、戦争を

起した張本人に対する犠牲者の怨み等々が蛇となり復讐をするのである。

 蟻地獄は殺生の罪であって、例えば虫、鳥、小獣等を理由なきに殺生する。それが蟻となって苦しめる

のである。それについてこういう話がある。その目撃者から聞いた事であるがある時木の上に蛇が巻き着

いていた。見ていると数羽の雀が来て、その蛇を突っつき始めた。遂に蛇は木から落下して死んでしまっ

た。そのままにしておいたところ数日を経て、蛇の全身が無数の蟻になったのである。その蟻が群をなし

て幹を這い上り、その巣の中のまだ飛べない何羽かの雀の子を襲撃した。もちろん雀の子は全部死んだの

であるが、実に蛇の執念の恐ろしさを知ったと語った事がある。

 蜂室地獄は無数の蜂に刺される苦しみで、その例として左のごとき話がある。以前私の弟子であった髪

結の婦人があったが、その友達がある時霊憑りになったので、ある宗教家の先生を頼んで霊査をして貰っ

たところ、こういう事が判った。その友達の御得意であるある芸者が死んで蜂室地獄に落ちて苦しんでお

り、救って貰いたいため憑ったというのである。その霊媒にされた婦人は、その頃某教の信者であったか

らでそれに縋ったのである。霊の話によれば人間一人入れる位の小屋に入れられ、その中に何百という蜂

群が、全身所嫌わず襲撃するのだそうで、その苦痛に堪えられないから助けてくれというのである。この

罪は芸者として多くの男子を悩まし、大勢の妻君が霊界に入ってから嫉妬のため蜂となって復讐したので

ある。

 次に地獄界は伝説にあるごとく、獄卒として赤鬼青鬼がおり、トゲトゲの付いた鉄の棒を持って、規則

に違反したり反抗したりする霊を殴るのであるが、これは肉体の時打たれるより痛いそうである、何とな

れば肉体は皮膚や肉によって神経が包まれておるからで霊ばかりとなると直接神経に当たるからで実に堪

らないそうである。そうして地獄の幾多の霊がよく言う事に、何程苦痛であっても自殺する事が出来ない

ので困るそうである。なる程自分達は既に死んでいる以上、この上死にようがないからである。この点霊

界は厄介な訳である。また地獄界を亡者が往来する場合火の車に乗るのだそうである。地獄界の霊は自身

の苦行または子孫の供養によって漸次向上するのであるから、子孫たるもの供養を怠ってはならないので

ある。

 私がある霊を救い鎮祭してやると、間もなく私に憑って来た。その霊いわく。「今日御礼と御願いに参

りました。御蔭で極楽へ救われ嬉しくてなりません。私の嬉しい気持はよくお判りでしょう」という。な

る程その霊が憑依するや、私は何とも言えない嬉しさが込み上げて来る感じである。次いで霊の御願とい

うのは、「どうか再び人間に生れて来ないように神様に御願して頂きたい」と言うので、私は不思議な事

を言うものかと思いその理由を質(たず)ねると、「極楽は生活の心配がなく実に歓喜の世界であるに反

し、娑婆は稼いでも稼いでも思うように食う事さえ出来ずコリゴリした」と言うのである。これによって

みると、霊界行も満更悪いものではないらしく、死ぬのも楽しみという事になるが、それには生きてい

る中に善根を積み天国行の資格を作っておかなければならないという訳である。

 次に人霊以外の他の霊の状態を概略書いてみよう。


 (中略)


  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

   喜美談語 天国行きの切符        槐安生 
                       『地上天国』52号、昭和28(1953)年9月25日発行

 私たちメシヤ教の信者は、天国ゆきの特別入場券を明主様から頂いている、と思っている。天国といい

極楽といい、コトバに違いはあってもそこは霊魂の還えり往く最上、最良の所であって、如何に麗わしい

所であるかは仏教も教え、基督教も説いている。そしてその信者たちが一ように目ざし願うところも天国

浄土への往生である。

 古往今来、いかなる宗教でも天国――地獄の思想を持っていないものはなく、ひとたび冥府へゆくなら

ば、生存中になされた善悪の行為が厘毫の誤差もなく計量され、信賞必罰が厳重に行われて、霊魂の往き

先きが天国、地獄と指定されるとしたら、神に帰依し善行徳行を重ねて、天国行を希望するのは誰しも当

であろう。

 私は、宗教家が説き教える浄土思想そのものは、現世の倫理的、道徳的な面に意義を与えるだけしかな

い。と価値判断を下していた。霊界は勿論のこと、霊魂のあることさえも知らなかったときは、天国――

地獄の実存を否定して、時代離れした宗教家の頭の古さや信者の無知を冷笑していたのであるが、この傾

向は、かつて無神論者であった当時の私だけの持つ考え方ではなく、現在のインテリに共通してみられる

考え方である。

 メシヤ教に救われて入信してから、神、霊界、霊の実在をはっきりと知った驚ろきは、私をして、それ

迄の唯物的な世界観、人生観を一擲させ、神に奉仕して悔いなき現在の栄光ある生活に入らしめ、完き人

生の喜びを得たのであるが、さて思う。自分は天国に行けるかどうか

 極楽浄土に往生するためには弥陀の称号を称えよ。例え一ぺんの念仏であっても必ず救われる。と親鸞

は教えたが、果して、この教えに従がった人々の所期の願いが遂げられたかどうか。

 天国の門に入ることは世俗的な現世での成功を獲ち得るよりは至難であるらしく、この事は、吾々の祖

霊に天国にいる方の少ない事からも想像されるこの入るに難い天国も、メシヤ教の信者だけに

はパスポートが渡されている事を、私は霊界へ還えった信者さんから、一再ならず知らされてい

る。

 メシヤ教へ入信した。という事は、天国への入場券も明主様から頂いた事になる。と悟らされ、メシヤ

教の量り知れない大功徳に、またも驚異の思いを新たにさせられた。お蔭さまで天国に住まわせて戴いて

有難うございますと霊界から礼を述べられるたびに、なんともいえない羨望の念が湧き、さて、自分は

どうか。とまたしても考えさせられる。メシヤ教の信者であってみれば、同信の方々が嬉々として楽しん

でいる天国から、遥かはるかの遠い常暗の国、地獄に独り堕されては耐らない。せめて中有界ぐらいの所

で勘弁して貰えまいか、天国へ往くも地獄へ堕ちるも生存中の信賞必罰、因果応報であってみ

れば、被告である自分に発言権はなく、ただ判決に服する外はない。そこで、自分の過去、現在をおそる

おそる検討してみるのであった

 私のところへ礼を述べに来た天国の信者さんは、善行徳行を重ねて無垢の人生を送り、私の場合は多分

に小乗の悪を行って来たに違いない。それと現在専念している、救いの道とを計量すると、どちらに比重

が傾くか。恐らくまだまだ悪の方が多いかも知れない。とすると、天国行の希望は怪しいものになって来

こう考えると奈落の底に墜ちたように失望落胆するが、私はまだ天国行の希望を全く捨てた訳ではな

。というのはメシヤ教の信者は例外なく天国行の切符を明主様から頂いているからで、

ら多額な金を積んでも得られないこの貴重な切符を無駄にするかしないかは、その人が信者

としての無垢の生活を送り、報恩感謝をし、悩める人を救って神の道に入らしめるか、

どうかでも決まるのではあるまいか。と考えるからである。

 私は神の道に生きて、明主様から頂戴している天国行きの切符を無駄にしたくないと思っている。



inserted by FC2 system