ミニ講座






                    〔焦らず 怒らず 怠らず〕


             過去のミニ講座 平成22年11月     









       三、 霊光の説明     (医講  昭和十年)


 抑々、霊光とは何ぞやと言ふに、読んで字の如く、霊の光であ
り、光の霊
である。此霊光と名付くべきものは、凡ゆるものが、大な
り小なり放射しつつあるのであって、動物にも、草木にも、幾分の霊
光はあるのであるが、爰では人間に就て、説明するのである。此人
間の肉体から発する霊光は、普通の人間に在っては、一名霊衣とも言
はれ、英語ではアウルと言ひ、健康体の者、又は心の清い者程光が強
く、霊衣は厚いもの
である。

 極上等の人で一尺位、少い人で一寸位、普通二三寸位が一番多いの
である。大体白色であるが、其人の霊統に由って二種に分けられる。

 
 それは日の霊統と月の霊統であって、日の霊統は、金色を帯び、月
の霊統は銀色を帯びてゐる
ものである。然るに、特別の人間、例えて
言えば釈迦とか基督とか、空海とか日蓮とか言ふ人になると、普通の
人の何層倍の厚さも、光もあるのである。けれども、
世界大に大きい
ものは、未だ一人も出なかった
ので、分り易く言へ
ば、釈迦は東洋の
半分大、イエスは欧羅巴大、空海、日蓮等は、日本の何分の一大位な
ものであって、その宗教の拡がった限度が、其大きさを説明してゐる
と言ってもいいのである。

 
 所が今度は、未だ例のない大きさが出るのであって、今は必要丈の
大きさと強さ
であるが、最後には、世界大に余の霊衣が拡がるのであ
る。
其時こそ、病貧争のない、大光明世界なのである。然し、大きさ
は今は未だ小さいのであるが、
光の強さに於ては、現在でも釈迦や基
督等も、到底及ばない
のである。其光が病気を治す力なので、其
光が是から沢山養成さるる医療士の肉体を通して、凡ゆる病気を治す
事になるのである。それで、余の此光は、太陽の光と月の光と、両方
混ぜた如うなものであるから、熱のある人に向っては、月の働きによ
って冷し、反対に、冷えた人に向っては、日の働きで温めるのであ
る。そして此光が、病気を解消するに、如何に力あるかは、別の項目
で、詳しく、述べる事にする。

 


    四、 病気の本体は魂なり  (医講  昭和十年)


 抑々、此現象界に於ける凡ゆる物質は、悉くが霊と体から成立って
ゐる
のであって、物質が腐敗したり、腐朽したりするのは、霊が脱け
切って了ふから
なのである。石でさへが、死石と言ってポロポロ欠け
るのがあるが、あれ等が、霊が脱けた為なのである。金が錆びるとい
ふのは、矢張り、霊が脱けて、其表面が屍(シカバネ)になったからなの
で、錆は、金の死骸とも言へるのである。然し、よく磨いた刀や昔の
鏡が、錆が少ないのは、其工作者の霊が加はってゐる為である。併し
て、物質の霊は単に霊であるが、動物の霊は精霊と名付けられてゐ
る。
生きた人間は、精霊と肉体と、密著(ミッチャク)不離になってゐる
であって、
精霊が脱出して、現界から霊界へ行く事を、往生又は死と
いふ
のである。


 然し、人間は、精霊許りかといふとそうではない。精霊ばかりな
ら、物質と違はないのであるが、凡て動物は、精霊の外に、否、精霊
の中に心があり、魂がある
のである。即ち、
精霊の中心に心があり、
心の中心に魂があるので、その大きさは、心は精霊の百分の一で、魂
は心の百分の一の大きさが本当である
。であるから、最初、魂が動い
て心が動き、心が動いて精霊が動き、精霊が動いて肉体が動くのであ
るから、人体の運動は固より、凡ゆる肉体現象の本源は、魂其物から
出発する
のである。之を善悪に分ければ、肉体が悪であって心が善で
あり、心が悪であって魂が善であるのである。此善悪、善悪、善悪の
軋轢
(あつれき)が調和となり、それが、活能力となって現はれるのであ
る。

 
 故に、病気其物の発生は、肉体を動かす精霊の千分の一の容積た
る、魂の其一部に発生するのである。此魂なるものは、小さくとも伸
縮自在
であって、人間が起きて働いてゐる時は、人間の形をしてを
り、寝る時は丸くなってをるもの
で、死の刹那、人魂が丸くなって飛
んでゆくのは、死と同時に、魂が丸くなり、心が丸くなり、精霊が丸
くなるからなのである。其丸いのに光が伴ふから、人魂となって、
偶々人間の眼に見える事になるのである。


 人間の形をした魂の一部に、病気が発生するといふ事は、実は、魂
の一部が曇る
のである。即ち、其部分の光が薄らぐのである。
それが
心に写り、精霊に映り、終に、肉体に、病気となって現はれる
のであ
る。であるから、
魂にさえ曇りが出来なかったら、絶対に病気には罹
らない
ものである。然らば、何故に、魂に曇りが生ずるやといふに、
それが罪穢
なのである。此罪穢を説明するには、宗教の分野に入る事
になる
から、爰では、之丈に止めてをいて、肉体に現はれた病患の説
明に移る事にする。


 前述の如く、精霊が精霊の一部、例えば肺臓の部分に、曇りを生ず
るとする。すると、
其部分の血液が濁るのである。濁りが進めば化膿

する事になる。此濁った血が、喀血又は血痰となり、化膿した膿汁が
痰となる
のである。臭気を持った痰は、此膿汁が古くなったのであ
る。


肺病に限らず、凡ゆる病気は、右と殆んど同一の理に依って、発生
する
のであるから、治病の原理としては、此精霊の曇りを払拭する
である。然るに、此理を知らざる現代医学は、肉体に現はれたる病気
現象のみを治療せんとし、研究努力するのは、末のみを知って、本を
知らざるが故
である。縦令(タトエ)、一時的小康を得るとも、根本的治
癒は到底出来得べくもない
のである。故に、我指圧療法
(浄霊)は、観
音の光に依って、此精霊の曇を解消するのであり、其曇が解消すると
同時に膿汁が溶解し、病気が軽減又は消失するのであるから、此精霊
の浄化が肉体へ映って病気は治癒する
のである。然乍ら、未だ之のみ
にては根本的とは言ひ難い
のである。無論医術よりも根本的ではある
が、絶対とは言へないのである。何となれば、
魂が、全く浄化されな
ければ、真の安心は出来ない
訳である。魂の浄化とは、其人が正しい
信仰を把握し、其行を実践するのでなくては徹底しない
のであって、
其行が観音行であるのであるから、其所まで行けば罪穢の発生は全然
無くなり、反対に徳を積む人となるに由り、無病息災所か、歓喜法悦
に満ちた生活が出来、福徳長寿の幸を得て、一家弥栄える事になる

である。

 
 序だから、に就て、今一つの事を説いてみる。それは、能く物に
驚き易い人や、何時も不安状態で、何となく、そはそはしてゐる人と
がある。是等は、其魂が弱ってゐるので、外界の衝動に対する抵抗力
が、薄い
からである。現今非常に多い、神経衰弱といふのは斯ういふ
である。
此原因は、矢張り魂に曇があるから弱るので、斯ういふ人
は多く首筋に毒血の凝血が必ずあるので、之を溶解すれば治るのであ
る。之が激しくなれば不眠症を起すのであって全快後も、再発の患(ウ
レエ)を無くするには
観音信仰に入り魂が光に照され曇の生じない様に
するのが、最良の方法
である。

 


  五、 西洋医学の誤謬と日本医学の建設

                    (医講  昭和十年)
 
 病気の原因は、精霊が曇るといふ事は、前述の通りであるが、それ
に対して、人間の肉体は、実に巧妙に出来てゐるのであって、今仮に
病気、例へば、風邪に罹るとか、扁桃腺で喉が痛いとか、関節炎で
節々が痛いとかいふ、夫等
熱や痛みの、苦痛の本体は、一体何である
と言ふ事なのである。実に、その苦痛こそ、病気其物を治癒すべ
き、霊妙不可思議なる、人間自身の工作
である。


 人間を造られた、主神の御意図は、本来、健康人体であって、人間
が、天地の法則を破り、又は破らんとする、其意志や行為を、警(イマ
シ)め給ふ其為に、止むを得ず、病気なるものを存続せられてゐるので
ある。
主神の御意志としては、天律を破らない、従而、病気をしない
人間であって欲しいといふ事は、間違ひない事
である。言ひ換えれ
ば、
病気とは、人間の不正行為に対する刑罰である。


 故に、病気の苦痛には、二つの意味がある一つは、悪を再びせざ
る戒め
と、も一つは、肉体自身の治病工作のそれである。であるか
ら、
発熱とか痛みとかは、病気を治癒する工作であり、活動であるか
ら、其苦痛は、一歩々々否一刻々々、病を軽減しつつあるのである。
然し、何事にも最盛期があるので、病気に対する、その治病工作とて
も、峠があり、クライマックスがある
のであるから、最早苦痛に堪え
ないといふ時が、必ずあるものである。


 然し、そういふ苦痛時は、永く続くものでは決してない。何故なれ
ば、そういふ
激しい苦痛の時は、治病工作が白熱的であるからで、そ
ういふ時こそ、大いに、
病気は治癒されつつあるのである。然し、
迄此事を識り得なかった
ので、病気の苦痛は、病気が悪化する為と誤
解して、苦痛が強ければ強い程、非常に不安を感じ、医療を受け様と
する
のである。何ぞ知らん、事実は反対であって、
苦痛が強ければ強
い程、それは治りつつある
のである。


 然るに、西洋医学は、元来が対症療法であるから、専ら病気の苦痛
を軽減するに努める。

 即ち、熱が出れば冷まさうとし、腫物が腫れて膿が出やうとすれ
ば、膿を出すまいとして氷で冷し、又は、薬で散らさうとする。痛み
で治さうとすれば、其痛みを感じさせまいと注射をする。
そういふ方
法は
、病気を治す処か、反対に治す工作の邪魔をして、実は、治さな
い様に努力してゐる
訳である。恐らく誤りも之程甚しいものは外にな
いであらふ。且つ、事は人間の生命に関する大問題であるのに、それ
が、今日迄、気が付かなかったと言ふ事は、実に、驚くべき事ではな
いか。


 観世音の霊示に依って識り得た私は、世界人類の為何条黙視し得べ
き、
一日も早く、人類の覚醒を促さん為、真に治る医学、病気をしな
い衛生法、長寿可能の健康法を創成した
のである。之が即ち日本医学
なのである。

 


  −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


   「渋井総斎先生を忍んで」

                 某教団専従資格者の話より抜粋
 
  献上品の意味と先祖のお土産


 献上品とは、神様に対して先祖からの手土産として差し上げさせて
戴くもの
御参拝の時、どの信者も御玉串の外に夫々に献上品は必ず
持って行く
のが慣いでした


 或る時、先生に献上品の意味をお聞き致しました所「御玉串は自分
が神様に差し上げるもの、しかし参拝には先祖も子孫も肩に乗って参
拝が許されるのだから、明主様に御面会の時は先祖も光を戴かせる為
に、先祖も一緒に参拝して下さいと仏様に挨拶して出掛けると良い。
その時、献上品を持参して受付に先祖から神様へのお土産です」
と届
けると先祖も神様に差し上げる事が出来るわけだから、それだけ喜び
の中でお光が戴ける
のですと仰言って下さいました。随って土地の特
産品、珍しいもの、初物等次々と御神前に献饌されましたが、その様
な意味が含まれている事を教えて戴き、その後は献饌が楽しくもあ
り、先祖様も大手を振るって参拝される姿を思い浮かべて、あり難く
感じました。そして御神前の御供物は益々増えて大変賑々しくなって
参りました。



  先生は事に応じて種々教えて下さった

 
 私達が専従者になるという事は、本教に就職する事ではない。因縁
の使命によって「させられるのだ」と。

 家ぐるみ入信となり、私も専心御用にお使い頂くべく一生懸命開拓
布教している頃、突然母が脳溢血で倒れ、一日経たぬ内に亡くなって
仕舞いました。昭和25年頃読売新聞に時々邪教として叩かれている
頃でしたので、その葬式の後の直会の席上、さんざん叔父達からのの
しられました。

 
(1)お前も病気が治ったら早く勤めにでも出れば良いのに信心なん
かに狂いやがって

(2)姉さんを(母の事)医者にかけずに死なせちまいやがって

(3)第一こんな邪教に狂っていたんでは中○家先祖のツラ汚しだ。
△(長男)もこんな弟なんかに飯を食わさず追い出してしまえ。働き
もしないで家から金や米を持ち出して、これじゃヤクザになったのと
同じじゃないかと。


 早速に宝山荘に先生を尋ね、上記の事を申し上げ今後どの様にした
らよいやら、御相談に上がりました所「君はどういうつもりなのだ」
と聞かれるので「私は肺結核を救われレントゲンの結果、影がなくな
っているので、浄霊は病気を治すのみではなく、無くならせるのであ
り病貧争に苦しむ人々に健富和の喜びを与え、地上天国建設の明主様
の大理想実現の御用を喜びと希望に燃えて居りますので、続いてやっ
て行きたい
」と申し上げましたら「そんなら御修業に来なさい。何も
持って来なくてもいいよ」と暖かい御言葉をかけて下さいました。

 
 その頃は10日間の御修業にはお米一斗と2,000円無ければ御修業に
は上がらせて頂けなかったからです。そして更に言葉を続けて・・・

 
(1)導いた人の浄化を解決する為にお世話をするそれが面倒な
人程、前世に関係あった人同志が生まれて来て師弟関係になってく
る。だから、
礼節と順序は厳しいものなんだ
という事も教えて下さ
いました。

 
(2)「此の神様の御用をする人は、代々前世の夜の時代の建設者だ
った
。言わば、霊的な意味で罪つくりが沢山してある。そして、今度
は昼の世に生まれてきて、
神様の御用をさせて戴いて罪亡しをする
になるのであるから、
浄化は厳しいよその御魂浄めを戴きながら、
一つ一つ浄化を解決していく中で、向上していく様な仕組みになって
いる
のだから浄化も厳しいが、解決した時にその喜びも大きい。辛い
事もあるが、辛い事だけじゃない。必ずその中には楽しみもある筈。
その辛い事、楽しい事の繰り返しの中で修業させられていくのだか
ら、浄化に負けず、逃げもしないでしっかりやりなさい。そして、そ
ういう事を経験する程、将来の為に大きな力になるのです」
と励まし
て下さいました。
「それには、焦らず、怒らず、怠らず、の三ヵ
条を守って行きなさい」

 
(3)又、「中○家の先祖のツラ汚しと言われたそうだが、先祖のツ
ラ汚しかどうかは霊界へ行って見れば判る。先祖は自分達の残した子
孫の中から神様の御用する人が出る
(当時は専従者の事を御用の人と
言っていた)
という事は、誉
(ほまれ)でありどの位肩身の広い思いをす
るか、はかり知れない
程だ。昔、政争、戦争の激しい頃、天皇、皇室
の為にどの位犠牲者が出たか、はかり知れない。その為に天皇家から
各宗の本山に王女や内親王が、降下して行ったものだ。それも宗教に
よる救いの意義の大きさ、深さがあればこそなんだから、叔父さん達
の非難する言葉も、自分の御魂磨きの為、砥石となってくれるのだか
ら有難いという心で受け止め、御用の人になる事を誇りに思い、しっ
かり御用に励んで行きなさい
。」
、と励まして下さいました。

 
(4)「要するに、御用の人(専従者)になるという事は、食う為に
職業として選ぶのではない。その人の因縁使命として御神業の中の一
つとして御用を担う人に選ばれ引き出される
のだから、辛い事や苦し
い事、嫌な事から逃げず真正面から立ち向かって行く事が大切
であ
る」と悟らせて下さいました。この時、御用に飛び込む以上、
サラリ
ーマン根性ではいけない
のだと強く悟らせて戴きました。

 


 御用の人とは何をなすべきか、どの様な心で


 宝山荘に無一物で御修業に上がる事を許されていた頃の事、行事も
なく参拝者、浄霊者も少ない時、今日は家の人に浄霊をしてやろうと
いう事で、ある日風呂場の掃除をしていましたら、先生から呼出しを
戴きました。足を拭き、靴下をはきかえるだけで仕事着のままで、御
浄霊の部屋に入れさせて戴きました。何人かの先生方が和やかな雰囲
気の中で御浄霊を戴いておりました。その中で2、3質問させて戴き
ました。


 「先生、どうしたら五六七会の様に多勢参拝に連れて来る事が出来
る様になれるのですか?」と。「君は明主様をどの様に考えているの
だネ」
と聞かれるので「ハイ、明主様は命を捧げても惜しくない方で
す」と答えましたら「あぁそうか、その覚悟が出来ていれば話は早い
な。じゃ明主様に命を捧げるという事はどうする事なんだ」
と逆に尋
ねられました。私はそれ以上言葉に詰まってしまいました。私は少年
時代より日支事変の時代に成長し、徴兵1年服役この間幹部候補生と
して教育を受けていましたので、天皇陛下に命を捧げる、戦死すると
いう事は名誉であり最高の道徳という考え方が染み込んでおり、幸い
生き長らえて復員し、今度は結核を明主様に救われ、
医学の革命を叫
んで地上天国を建設する
明主様
には、命を捧げても惜しくないという
気持ちでおりました。言わば単純な気持ちだったのです。側におられ
た岡田幸造先生に「岡田さんはどう考える?」と言われました。岡田
先生は「そうですネ、
浄化している人に浄霊を始めると命がけとなっ
てしまう事がありますが、自分の誠心で命がけで取り組み、浄霊で命
を助け出し自分の誠心で相手の誠心を引き出して、その誠心を明主様
に捧げる様に結びつけて、
自分は無になるという事と思いますが
‥‥。」と言われましたら、


「そうなんだよ。それが明主様に命を捧げるという事になるんだろう
ネ。
命がけで明主様に誠心を捧げる人を育てるこれが御用
する人の大切な事
だよ。それ以外何がある」と言われました。そして
更に「
御用をする人は浄霊の職人になっちゃ駄目だ。又宗教の職人に
なっても駄目なんだよ
」とも申されました。「それは自分は型なん
だ。
自分が明主様に誠心を捧げるからこそ、信者にも明主様に誠心を
捧げる人が育つ
んだ。自分が実行せずに口でいくら上手い事を言って
も人はついて来ないよ
」と言われました。


 要するに、御用の人、専従者はサラリーマン的で唯行事をこなして
いるだけでいてはいけない
明主様に誠心を捧げで悔いない人を育て
る。それが一番大切な事なんだ
という事でした。そして又次の言葉も
聞きました。「
何をしていようと、神様、明主様はどういう
心で奉仕しているか腹の底まで見抜き、見通しなんだよ。
ジィーッと見ていてネ。そして本当の誠心しか受け取って
くれないよ。
表面はいくら上手くやっている様に見せ掛けても、内
心に怠け心があれば決して実を結ばない
。けれどね、固くなっちゃあ
駄目だネ。相手も固くなっちゃうからネ」と言葉を付け足して下さい
ました。

 
 そして、つい、私がその時「どうやったらお導きできるのかなあ」
と思わず洩らすと、先生は即座に、「
それは叡智だ、浄霊で人
助けをしたいと心底思う誠があれば、あとは叡智
だよ。叡智とはその
場その場で湧く最高の判断だから、それには明主様をよくお念じ乍ら

(その頃は祈る事をお念じすると言っていた)ぶつかっていけば、必ずその場
その場で、必要な叡智は湧いてくる
それがその人のその時の
だから、教え事にはならないね、失敗しても何でも、くじけずにや
っている中に身についてくるし、そういう人が発展したんだよ
」と勇
気づけてくれました。

 
 そしたら岡田先生が「私だって何回失敗したかわからない、でもど
うしてもあの人を助けたいと思うとああして見よう、こうしてみよう
と思う事が心に浮かんでくる。するとその人が離れていっちゃうと次
の人が出てくる。すると今度はうまく行く。その失敗と成功の繰り返
しの中で段々わかってきた
ね。
心を砕いて工夫するとでもいうのです
かね」といいますと「
そういうのをというんだよ。やっている中に
面白くなってくるよ」と教えてくれました。


 その頃は「お導きする為には誠と叡智」という事が上から下まで流
行語の様に伝わっていました


 それから部屋を変えて、一服している中、岡田先生が「先程の話だ
けどね、例えて見れば、親父がタバコを吸うとき子供に『タバコ盆を
もってきな』と言ったとすると


1、『ウーン、やっかいだなあ。その中もっていくよ』と言って動こ
うとしない子、


2、『ああ、そうかい。あいよ持ってきたよ』と素直に持ってくる
子、

 
3、食事が終わって、タバコとマッチを持つのを見たら、途端に動き
出して『パパ、タバコ盆持ってきたよ』と差出す子


とあったら、どの子が一番可愛いと思う?」と問われました。「勿論
3番目の子供ですね」と言うと、「親にとっては可愛さは同じ、然し
3番目の子には期待をかける。そういう子には学校も上げてやりたく
なりますよ」と。するとそこにいた森本先生が「
『勉強を言われても
しない子は落第生、言われてする子は及第生、気付いてする子は優等
生』
といつも言ってるのですよ」と言いました。


 「言われなくても気がついて、進んで御用をする人。そういう人は
明主様との霊線が交流する事になるから、余計に光を頂く
様になる。
だから
そういう人が救われるんですよ、神様 明主様は公平ですから
」とつけ加えてくれました。

 


  ――――――――――――――――――――――――――


 渋井先生の言葉


「捨て身の御用こそ起死回生運命転換の御守護が頂ける」


 ここで、本教に救われた事について、かつて渋井先生が話されてい
た事を思い出した。或る時、専従者が大浄化の中を救われた時の話
ある。

 
 救われるという事の本当の意味は、

捨て身になって、浄霊で人助けの御用をさせて頂いた人こそ、
の危ぶまれる様な大浄化の時に一命を取りとめて頂ける様な奇蹟の御
守護を頂く
のである。
人の霊の曇りの深さは、人間には解らない

 人は、夫々皆違う、輪廻転生の中で夜の時代に犯してきた罪汚れの
ある人が、昼の世界に生まれてきて今世で明主様にめぐり合い、その

御用の中で許される様な仕組みになっている曇りの深さが夫々違う
が、その人の御霊相応の浄化を繰り返し乍ら、浄められつつ許されて
救われていき、逐次霊層界が上がってゆく


 捨て身になって人助けをするからこそ、その徳によって曇れる魂の
核心にふれて浄められ、霊層界が上がってゆく、そして運が開けてゆ
。本来救世教草創期に御用の人になった人は前世は皆夜の時代の建
設者だった。それには建設も破壊もあり働きの大きかった人程、曇り
もまた深い、だから、一度や二度は生死にかかわる様な大浄化に会い
乍らも、
誠心で御用させて頂くから大浄化の中を乗り越えさせて
頂いて、遂次発展が許されてきた
んだ、そういう人達が教団の礎を築
いてきたんだよ。中○さんや□ちゃんの様に若い中にこの道に入れた
人はそれだけ幸せなんだよ、そして、そういう処を通り抜けると楽し
みながら浄まって向上していくという面もあって、いろいろ経験して
くると御用の面白味が出てくるしね!!』


 と味わい深い話であった。

 渋井先生のお話の大要は、

『捨て身になって、人を救う人こそ大浄化の時、救われる人となり、
そういう人が核になり、教会も、教団も発展してゆく』

 
という事であった。








inserted by FC2 system