ミニ講座






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   大光明世界の建設光の主   (観運  昭和十年九月十五日)

 
凡ゆる病気を治し、貧乏を無くし、争いを無くする力、不幸と罪
の原因を、はっきりさせて、その原因を取除く力、それは、光り
の、力の浄化作用である。
日月の光りが、一個の人間の肉体を通し
て、働きかけるといふ力とは、実に、空前の事象
なのだ。科学では
到底、判らない光り
であるが、実在の光りである。此光りが、驚く
べき奇蹟を、今、無数に作ってゐる


然らば、其光りは一体何処にあるのか、それは、観世音菩薩が具
有され、一人の超人を機関とされて、救世の大本願の達成に努
められてゐるのだ。其力を、観音力と言ふ。
此観音力が働くや、一切の不幸は、解消してゆく、驚
くべき一大奇蹟
である。此力へ対しては、神学も、哲学も、理
論も、科学も、何等の説明は出来ない
。何となれば、人類史上、未
(イマ)だ経験のないものであるからである。
過去の世界の事物を対象
とした、学問と経験では、説明出来ない
のである。茲に、唯、体験
する一つの手段だけが、此力を識る、唯一の方法としてある
ばかり
である。




   大光明世界の建設幸福の家  (観運  昭和十年九月十五日)


本会下附の観世音の御神体は、観世音菩薩の御直筆であると言っ
てもいいのである。故に
御奉斎をすれば、其御神体から、光明を放
射する
のである。之は、其家の幾人かは必ず拝するのである。其光
りの色は、プラチナの如きあり黄金の光りもあり、紫の光りもあっ
て、初めて拝した人の驚きは一方ではないのである。


 一家に不幸があり、病人が在るといふのは其家の霊界が暗いから
で、暗黒程悪魔の霊が跳躍する
のである。霊界が暗いといふ事は曇
があるから
である。曇があるといふ事は、其一家に、祖先以来の罪
穢が溜ってゐる
からである。よく暗い家といふが、それは人間の霊
感で判るからである。


 此一家の曇りが、御神体から放射する光りによって解けてゆく
である。日に日に暗が解けて明かるくなってゆくのである。故に
迄不幸な事があったり、思ふ様に行かなかったそれ等が、不思議に
も反対になって行く
それは悪魔が光りを恐れて退散するからだ。
奉斎して、半年も経てば病人が無くなる
といふ不思議さは、体験者
でなくては信じられない事である。
今迄、斯んな大きな力を与えて
呉れる宗教は、断然無かった
といふ事は言へるのである。

 是迄の宗教は、高価過ぎた、犠牲が多過ぎた。罪障消滅に金と時
が、余りにもかかり過ぎたのである。我観音信仰に於ては、僅な時
と、僅な金で、絶大な御神徳を恵まれるといふ事は実に驚くべき事
である。故に、今直ちに奉斎する事だ、それで、万事は解決する

 因に此世界は物質界と空気の世界と霊の世界と三段になってゐ
る。三界とか三千世界といふのは之を言ふのである。

 


   大光明世界の建設病気の原因と其解消

                                  (観運  昭和十年九月十五日)
 現在、生きてゐる人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋り
で、祖先の延長である
事を知らなくてはならない
。又言ひ換えれ
ば、
無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。無数の祖先の霊線
が、自分一個の霊と繋ぎ合ってゐる
。丁度、紙風船の糸の形を想像
すれば判る。


 故に、祖先が負ふてゐる、諸々の罪穢なるものは、霊界に於け
る、その天律的浄化作用によって、その残渣(ザンサ)たる霊汚素(レイオ
ソ)が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが人間の精霊
を曇らせる原因である
その曇りが或程度を越ゆる時、それが病気
となって、肉体へ現はれる
のである。


 西洋医学は、肉体へ現はれたる病気を、薬剤や器械で治さうと
する
のである。然し、よしそれで治った所で、精霊の曇を払拭され
ない限り、再び肉体へ病気が現はれるのは当然
である。之も社会事
業と等しく結果のみを治す膏薬張式で根原を無視した行き方であ
る。
一時的方法でしかないのである。


 観音の光。それはラジュウムより、何十層倍の価値ある光である
から、
精霊がそれを浴びるや曇りは解けてゆく、精霊の曇りが無く
なれば。肉体の病は治るに決まってゐる


 観音は救主であられる。罪を赦す御方である。祖先の罪穢によ
る、精霊の曇りを払拭するといふ事は、その罪穢を赦す事である。
是が根本的の治病法
であるから、再発の憂ひが無いのである。否
益々健康になってゆくのは少しも不思議ではないのである。

 
 斯の様に精霊の曇りが浄められるといふ事は、遡れば、祖先の罪
が赦されるといふ事になるから、地獄界に苦しんでゐた祖霊達が向
上して、天国へ救はれる事になるので、その信仰の徳は予測出来な
い程の洪大無辺なもの
である。



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 木原理事長による『奉仕隊へのお導き』より(三)

             『栄光』276号、昭和29(1954)年9月29日
 
 「お任せ」と「努力」の限界について


 このことは、難かしいと言えば、これほど難かしいことはない
―とも言えるし、易しいと言えば、又こんなに易しいことはない―
―とも言えるでしょう。つまり、
どこまでが「努力」で、どこまて
ゆけば「お任せ」
だと、ハッキリ区別のできないところが難かしい
という事になるでしょう。 この、「お任せ」と「努力」というも
のは、切り離しては考えられないこと
なのです。つまり二つ合わせ
て十になるというようなもの
であって、努力が八の場合、お任せは
二でよいし、片方が六の場合、他の一方は四となる。というよう
に、物事によって千差万別であり、その限度は自ずと違って来るも
のです。

 
 ところで、お任せすると言っても、何んでも彼んでも神様がやっ
て下さるからと言って、自分で歩こうともしないで、今に足を動か
して下さるだろう、という極端では、お話にならないし、又、努力
すべきだと言っても、度を越すとこれまたいけないに決まっていま
す。
何事も時所位によって決まるので、その限度というものが分っ
て、本当に実行できて行くとすれば、その人こそ信仰の真髄を掴ん
でいる人と言える
わけです。


 更に言えば、歩く時には頭は真直ぐにして行くべきだと言われた
からといっても、低い所を通る時には頭を下げれはよいのに"いや
真直ぐでなければいけない"と言って行けば、頭をぶっつけるに決
まっているし、又、溝があれば、よく見て渡らなければ落ちてしま
うわけです。夜の真暗闇なら、懐中電燈を持って行く――という努
力は、勿論必要でしょう。これらのことは、体的のことで、肉眼で
みえる世界のことだし、又頭をぶっつければ痛いことですから、気
違いか余程の馬鹿でない限り、頭を下げ、溝をまたぎ、明かりを持
って行くでしょう。


 そうして、低い所を通り過ぎたら頭を上げればよいし、昼間にな
ったら、懐中電燈は忘れてもよいわけです。それを、いつまでも頭
を下げて歩いたり、懐中電燈は有難いと言って昼間も大事に持ち歩
くというのでは、ナットランというわけです。こういうことを言え
ば"そんなことを聞かなくっても、誰だって分っている"と言うでし
ょう。


 ところが、日常の我々の行いはどうかということです。
えてして、
それに似た馬鹿な事をやり勝ちなのです。

 そこで、物事に当面した場合、これを簡単に言えば、非常に無
理をしなければならない事、苦労せねばならない事は、放っておく
ことです。「石に矢の立つ例しあり」とか言って、是が非でもと、
一生懸命苦労してやるというのは嘘です。ちょうど浄霊の場合、力
を抜くアノこつを思い出すとよいです。大体
この世のいかなる事で
も神様の御許しのない事は絶対できない
のです。御許しのある事は
うまく行くが、御許しのない事は、いかに努力しても無駄になるに
決まっている
のです。

 ところが、このことで明主様に御伺いしたことがあります。それ
は、"何事も、気持良くやれることであればやって行って宜しいの
でございましょうか"と申し上げたところ、

『いや、そうもゆかない、邪神が憑ってもスースー行くことがあ
るからね。何事も智慧証覚ですよ』
 
と仰せられたのです。
 つまり極端に言えば、戸が開いていてスースーと入れたから盗
んでもよいのだ、というのではいけないことは勿論です。


 そこで、やって善い事と悪い事との判断が必要になるわけです。
すべて物事には善悪がありますから、善は直ちに行うが、悪い事は
断乎として撥ねつけるという力強さを持つべき
です。そうして、

の善悪を知るには智慧証覚をいただかねばならない
わけです。


 一体人間は、あらゆる階級、あらゆる職業、老若男女を問わ
ず、
為すべき事と為すべからざる事とは、チャンと決まっている
のです。

 これは、御教えにある通り、目にはみえないが、絶対犯すこと
のできない神の律法があって、これを犯せば、神律に照らされ、絶
対に罰せられる
のです。よく言われる最後の審判とは、つまり為す
べき事と為すべからざる事をやった、その総決算期
なのです。

 そこで、それではいかにすれば神の律法を守り得るかということ
になるが、それは、御神書をいただき、実行させていただくより外
にないわけです。御歌に、

(いぶかしむ なかれよびとよ おもうこと  ならぬはこころに くもりあるなり)
訝しむ 勿れ世人よ 思うこと ならぬは心に 曇りあるなり

(あめつちの まことのみちを まもるより   ほかにすべなし ひとのこのよは)

天地の 誠の道を 守るより   外に術なし 人のこの世は

とあるように、御神書をいただくことによって、心の曇りはだんだ
ん取れてゆ
し、取れただけは心は明かるくなり、明かるくなった
だけは誠の道が分って来て神様の御心に叶う人として必ず栄光をい
ただける
わけです。そうして又、御歌に


 (めずらしき ちじょうてんごく うちたつる かみのみわざの だいじょうかかな)

珍らしき 地上天国 打樹つる  神の御業の 大浄化かな
 
ともあるように、この六月十五日以後は、殊に御光は強くいただけ
るようになって、浄化は益々はげしくなって来たことを、身近に感
ぜられるのです。


 まさか、さような不心得な人はないとは思うが、もしも"私は御
許しいただけて奉仕隊に参加できたから大丈夫だ
"と、ただそれだ
けなら、それは当が外れるというもの
です。勿論
教師であろうが、
役員であろうが、誰であろうと、ただそれだけでは、必ず申訳ない
結果が生まれて来る
ことを断言します。再び繰返しますが、信者に
も教師にも役員にも、それぞれ各自の使命があって、為すべき事と
為すべからざる事は、厳として決まっている
のです。


そのケジメをつけられる時それが最後の審判であることを肝に銘じ
て、各自その使命達成に精進すべきで、それを外にして大峠を乗り
越さしていただくことはでき得ないということを忘れてはならない

のです。




      死者よりの通信    

          『地上天国』15号、昭和25(1950)年4月20日発行

   霊界生活 根気をねる修業 

               天国大教会芙蓉教会 TN生
 近頃大分霊界の生活にも慣れて来ました。毎日々々、方々を物
珍しく見物しております。
私も生前は、死んだらすぐ天国に昇れる
ものと思っておりましたが、霊界の日常を見ているうちに、そう簡
単には天国や極楽に行けるものでない事を知りました
やはり絶え
ざる努力と鍛錬なしには、天国の門をさえ見る事が出来ません


 またこちらの世界に来たからといって、誰も彼も、毎日ブラブラ
と遊んでいるわけでもありません。それぞれ自分に相応した仕事を
与えられ、それに努力しております


 私のこちらでの任務は、貴方方現界の方々に霊界の様子をお知ら
せする、
いわば現幽の通信係です。その現幽通信を目標として、
の修業が必要
なのです。
こちらの世界では何といっても想念の世界
ですから、仕事をするに最も重大な事は、心の持ち方です。私達
が現界から持ち越しの悪い習慣や性質を根本から是正す
る事が、第一の修業
なのです。根気のないものは根気の養成を
せられ、見栄の強い人は、見栄を捨てるために努力させられます

これから僕の体験した根気の修養話をお知らせ致しましょう。

 
 修業をして来いという先生の仰せのままに、私は先生について修
業道場の門をくぐりました。道場はコンクリート造りのような堅い
石造りの大きな建物でした。丁度現界にある刑務所といった感じの
する所です。先生が受付らしい所で僕を道揚の人に紹介しました。
当分の間、僕は先生とおわかれしなければならないのです。たった
一人ぼっちで、見も知らぬ人の中に取り残されるのかと思うと、情
なくなり、先生の顔をうらみ顔で、じーっと見つめましたら、「そ
んな弱気を出すから修業しなければならないのだ。」と先生に叱ら
れました。


 道場の人に案内されて、僕は自分の修業室に這入りました。薄暗
い部屋です。むっとする異様な臭気が鼻を打ちます。汗臭いような
不愉快な臭いです。だんだんと薄暗い中で目が慣れると部屋の様子
が見えて来ました。部屋の大きさは百畳敷位でしょうか、部屋一ぱ
いに、薄黒いもやもやとした物が、山のように積まれてあります。
注意して見れば毛屑の山です。白毛や黒毛や赤毛等取りまじって、
ちじれたのや、くせのあるのが、ごっちゃになってもつれ合って、

むっとする臭気をただよわしているのです。


 何のために、この部屋に入れられたのか、何をしてよいのか分り
ません。忙然として立すくんでおりましたが、注意すると向うの方
に人の気配がします。近づいて見ますと、灰色の浴衣のような着物
を着けた二十四五歳に見える男の人が、どんよりとした目で、けだ
るそうにボツボツと髪の毛をつなぎ合せています。私が近づきまし
たら、そのどんよりした目で僕を見ながら、「君で三十六人目
か。」とつぶやきました。「三十六人目とは何の事ですか」と聞き
ますと、「自分がこの部屋に入れられてから、入って来た人が君で
三十六人目なのさ。」というのです。僕は色々とその人から話を聞
く事が出来ました。その人は現界で竹田という名前だったそうで
す。竹田君は相当な資産家の一人息子に生れ、両親から甘やかされ
きって育ったので、生活に困った事もなく、また苦労らしい苦労は
一つもせず、努力という事を知らずに育った
のだそうです。そして
気分の向くままに遊び暮し、気侭を言っている中に両親がつづいて
死んでしまいました。以下は彼の身の上話です。


「両親の死と同時にあり余る程あると思っていた財産も、まぼろし
のごとく消えて残されていたのは借金ばかりでした。その頃私は一
人の乙女と恋を語っておりました。その乙女は私が無一文になって
無力の一人ぼっちになると同時に、私から去ってしまいました。今
までチヤホヤと、取り巻いていた人にも何時の間にか、一人去り二
人去りして、私はたった一人ぽっちで広い世間に取り残されてしま
いました。

 
 さて一人立ちになって生きようとして見たものの、それまでの出
たらめの生活から来た無気力で何が出来ましょう。どんな事をして
見ても倦き易く、また他人も問題にしてくれず、何事も永続きしま
せんでした


 ただ他人をうらみ、天を呪うの他なかったのです。そしてとどの
つまり、
生きている事が面倒臭くなって自殺してしまいました。自
分の生命を自ら断つという事はなかなかむづかしい事です。しかし

生きる事に全然希望を失った私は、死だけが自分を救ってくれる唯
一の道だと信じ、思い切って死をえらんだ
のです。すべてが死によ
って無になると、それが目当で死んだ
のですが、苦しい思いをして
行った自殺行為が何にもならず、
生前と同じ苦しみが、依然として
こちらの世界にも伝っていました
。やっぱりこつこつと働く以外な
いらしい
です。この部屋に入ってからも随分永い年月が立ちまし
た。生前のめんどくさいと云う性質がたたって、こんな面倒な仕事
をさせられています。『何くそこれ位』と思った事も、永い間には
あったのですが、無気力さがよくよく魂の底まで泌み込んでいる
でしょう。すぐ気が抜けてしまいます。この毛を全部つながなけれ
ば、この室は出られない
という事ですが、何日になったらこの山が
なくなる事でしょう。思えばこんな腑抜けに育てた親達がうらめし
くてなりません」。という彼の話に引き入れられて僕も暗然とした
気持で僕に課せられた毛の山の方にもどって来ました。

 
 他人事ではありません。僕も彼と同じ運命の前に立っているので
す。根気のなかった点僕も竹田君と同じ事です。学生の頃勉強する
のにも父母からうるさく叱られて、辛うじて、その場限りの勉強を
していました。
何をやりかけても最後までやり抜いた事はありませ
んでした

 
「ああ」と嘆息まじりにころがって見るともなく天井を見ると、毛
の山はどうしてどうしてなまやさしい量ではありません。頂上はは
るかはるか高く、薄暗い中にはどこまであるのか見極めようもあり
ません。一本々々つないで行って、これがなくなるまで――、これ
が無くなるまで等といって、そんな事は不可能だ、十年経ったっ
て、よしんば百年つなぎつづけていたとてつなぎおおせるものでな
い。そう考えると、流石の僕も憤然として怒りがこみ上げてきまし
た。やり場のない怒りに一時はこの部屋を飛び出そうかとも考えま
したが、先生の事を思って、それがなお不可能である事に気がつき
ました。何故かというと、僕はもう先生の圏内から逃がれる事が出
来ないからです。無理におし切ってとび出せば、更に辛い道場に追
いやられるのです。

 
 絶対絶命の中に何かすがりつくものはないかと思っている中によ
い事を思いつく事が出来ました。それは竹田君の云った三十五人の
事です。竹田君の知っているだけでも三十五人の人が、この毛の山
をつなぎおおせて出て行ったのでありませんか。何かよい抜け道が
あるのかも知れない、と僕も勇気を奮って一隅に坐り、一本々々つ
なぎはじめました。やって見ると、考えているよりもっと厄介
す。大体僕は指先の仕事など不器用な方なので、一本つなぐのにも
相当骨が折れます。しかし今となっては何とも方法がないので、の
ろいながらもボツボツとつなぎつづけました。幾分手が慣れてくる
と、頭の中に色々な事が浮んで来ます。こんな情けない境遇に落ち
て来たのも、生前の心懸けが悪かったためか
と思っている間はまだ
よかったのですが、指先きが痛くなって来はじめ、血さえにじみ出
て来はじめますと、親達や周囲の人たちが恨めしくなり、しまいに
は先生さえ、にくらしくなって来ました。

 
 そんなにして幾日立ったでしょう。目の前の山は少しも減りませ
ん。あふれてくる涙で目がかすんで、指先きは血汐にまみれてしま
いました。
そうしているうちにだんだんと、なるようになれと、腹
が据って来たのでしょう。自然落ちつきも出来、無我無中に毛をつ
なぐ事に没頭するようになりました。どうしたら早くつなげるかと
色々工夫をこらしました。熟練というものは恐ろしいもので、速度
が段々早くなって来ました。そうなると現金なもので、面白くな
り、山の高さも苦でなくなり、ただ仕事に没入して、何もかも忘れ
ているようになりました。すると毛は自然に動いて来て、目にもと
まらぬ程の速さで髪の毛はつながれて行きます。遂には、指先きを
ただ髪の毛が走って行くような状態になりました。

 
 気がついて見ると目の前の毛の山が段々低くなり、見ている中に
一丈になり、五尺になり、一尺になりして、とうとう皆なくなって
しまいました。

 
 今までの血と涙の苦しい努力も忘れて、うれしさにうっとりとし
ていました。「ああもうすんだのだ」。と嬉しさに小躍りして毛の
山の跡をあるき回りました。
先生のお蔭だ何でも先生の云われた
通りを、わき目もふらず、一筋にやり通しさえすれば出来ない事は
ないのだ
。苦しさに先生を恨んだ事が申訳なくて、今はただ有難さ
に涙があふれて来ました。

 
「根気のなさも要するに熱意の不足からだ。生きている時、これに
気がつけばもっともっと大きな仕事を成し遂げたのに」
。等と今更
かえらぬ色々な事を思い浮べて思いに耽っておりました。
「光之
君、そこです。それに気がつけばよいのです」
。突然背後から声を
かけられました。振り返って見ると、見知らぬ老人が笑いながら、
僕をじっと見つめています。

 
生きている内に根気のない生活をしていたものは、こちらの世界
に来てから皆、こんな地獄に落ちてくるのですよ。そして止むを得
ず、根気をつけさせられるのです
。しかし貴方は幸福です。ここへ
来てもなかなかそこまで慣れない人があるのですよ、
どんな小さな
仕事でも根気無しには完成する事は出来ない
のですよ。皆自分の根
気のなさ、努力のなさを棚に上げて置いて、やれ條件が悪いの、境
遇がさせたのと、不平だらだらと並べて自分の非力をごまかそうと
している
のです。それが人間の通有性ですね。私達も生きている
頃、そんな仲間で不足ばかりいっていたので、こちらへ来てから、
散々それを苦労して、卒業後はこうして君のような後から来る人達
の根気の指導をしているのです。君等もせいぜいこの根気を大切に
持つ努力をして下さい。君の先生があちらで待っておられます
よ。」

 
 老人はそう云いながら、室を出て行きました。私は竹田君の事を
思い出して、そこへ行って見ました。相変らず、毛の山の蔭で元気
のない顔をしてボツボツと仕事をつづけておりました。「やあまだ
済みませんか。」と声をかけると竹田君はぼんやりとふりかえり
「ああ三十六人目の君にも先を越されたか。」と云いつつ、泣きそ
うな顔をしておりました。僕はその涙を見ると、気の毒で慰めよう
もなく黙って彼の前の毛の山を見上げました。

 
 彼竹田君は、

「どうして何時まで経っても、この山が減らないのだろう。私に
は段々増えるように見えますよ。皆後から来た人が、出て行ってし
まうのに、私だけは何日になったら出られるのか、何という因果な
事でしょう。」と言っていました。なぜだろう。僕も考えたけれど
わかりません。ただ気の毒でたまらないので手伝ってやりたいと思
いましたが先生が待っておられると思うと一時も無駄に出来ません
ので、「君元気を出して、工夫をこらしてごらんなさい。僕も自分
で工夫して早くつなげるようになったのですよ。」

 これだけ言うとすがりつくような竹田君の目をふり切って部屋
を出ました。







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