ミニ講座






                    〔焦らず 怒らず 怠らず〕


              平成24年1月度 ミニ講座     



平成24年1月度


    

    

大浄化開始とその表はれ方、信徒の心構え
   ――身魂の清まりと判り方、等   (S25―救世教開教前)


【答】(中略)神様は世界の大掃除をなされ、清掃作用が行はれる。病気は

それである。人間のゴミダメ――膿を掃除するのが病気である。独り個人

個人でなく、世界的に浄化が行はれる。

浄化作用は世界的にどういふ風に表はれるか。世界中、ウンとゴミが溜っ

てる所がある。それも少い国もあり多い国もある。といっても、目で見た所

では東洋とかアフリカ等は汚いが、霊的にいえば立派な国、文化の発達した

国が、神様からみれば案外により汚いかもしれない。それが表はれる。



どう表はれるか今言えないが、そこが難しい所で、それを知りたい。

銀座のような立派な所より、田舎の粗末な所の方が綺麗かもしれない。霊

と体とは違ふ場合が多い。之は想像より外はない。

昔からいろんな聖者、キリストとか釈迦等によって予言してあるが、それ

は実は今年から来る事の予言が殆どであって、いよいよそれが実現の時が来

訳である。

観音教団とか五六七教会といふのは仏名で、仏の方の働きであって、本当

の力は発揮出来ない。それは過渡期の行り方である。



 今年からは非常に変る。時期は節分、即ち二月四日から大いに変る。世の

中も大いに変る。急でなく徐々として変る。従而出来るだけ信者たる者は

を磨かなくてはいけない。といふのは、どうするかといふと、水を浴びた

り断食したりするような事ではない。神様はどういふお心持か、世の中の人

を救ふのはどういふ方法がいいか、どういふ考へでやるかをよく識る事であ

る。それを識るには、出来るだけ出版した本を読む事である。そして判れば

いい訳で、幾度も繰返すと段々判ってくる。最初読んだ時と五、六度目に読

んだ時とは違ふ。それは霊的に向上してくるからである。そしてすっかり腹

へ入ると喋れる。人に宣伝する時も言葉が違う。段々人に話すと、それによ

り魂が浄まり、清まると余計に分ってくる事となる。



世の中の人間はそういふ事と懸けはなれている。今の人間は実に悪い。末

期的症状とも言ふべきもので、之も段々ゴミが一杯溜って来た訳である。そ

れで人間は、魂が曇り善悪の判断が分らなくなっている。ただ自分さえ良け

ればよいといふ考えで、判らなくなっている。そういふ状態はいつまでも続

くものではない。今迄はそういふ事も必要だった。神様は善悪を摩擦さし

て、それで物質文化を発達させられた。人間が健康で善人だと文化は発達し

ない。それはやはり悪によって発達した。即ち必要悪であった。戦争などで

も、戦争のある度に発明や発見が発達する。もし戦争がなかったら発達はし

ない。然し戦争だけなら人類は滅亡する。その間に平和があるので疵を癒せ

る。

こうして文化が或程度発達すれば---神様は本当の目的をなさる。次の大

目的は神様にある。今凡ゆる事が世界的になった。電波を利用しテレビによ

って世界の事を見る事も聞く事も出来る。原子破壊なども発達している。そ

れらは地上天国、みろくの世を実現さすべき道具立ての必要から出来たもの

である。大体そういふように、ミロクの世の道具立てが大体出来たので、い

よいよつくる事になったが、それも汚い所ではいけない。綺麗な所で先ず始

める。それが今日となったのである。綺麗に掃除する――それが大変であ

る。



それが人間世界に於ては、汚い人間が片付けられる事になる。そこで「天国

は近づけり汝等悔い改めよ」といふのはそれで、悔い改めるといふのはゴミが

無くなる事である。人間はゴミにも玉にもなれる。悔い改めてからがゴミの

仲間から抜け出る訳である。そういふ意義のある年である。

然らば、掃除は神様はどういふ形態で行はれるかといふと、戦争と病気

である。戦争は人間以外の凡ゆる物質の汚いものを掃除される。種々の建造

物などもそれで、目で見て立派でも霊的に見ると全然違ふ。そして先ず霊界

から本当に綺麗にする。そうすると、イヤでもそれが現界へ移る。それが

恐いのである。一言にして言えば破壊と創造の大きいのが起るのである。

(中略)

個人としては、昼間になると浄化力が強くなる。毒素は人間にウンとあ

る。今迄は固まっていた。今迄は浄化も局部的だったから、固めるか浄霊で

外へ排泄するかどっちかであった。処が固める手段が段々出来なくなった。

霊界の浄化が段々激しく、固められなくなる溶かす働きが強くなっ

た。集団病気等それである。種痘をすると間もなく目が見えなくなった例も

あるが、今迄は種痘で固まったが、身体へ廻らぬうちに出ようとした。それ

で眼から出ようとした訳である。



今度は全身到る所に塊があったのが一遍に浄化が起る。すると頭痛、高

熱、嘔吐、下痢、足の痺れ、節々の痛み等々一遍に十も十五も病気が起る。

すると生命を保つ訳がない。之が最後の浄化である。そういふ風に表は

れるのが一番間違いない表はれ方である。之を先ず頭へ入れておかなくて

はならぬ

之が最後の審判である。罪の少ないものや信仰によって浄まった人

は、病気が三つか四つで済む。その代り浄霊でとても早く治る。洵に恐ろし

い時代でもあり、非常に有難い時代でもある。一口にいえばそういふ訳であ

る。

すぐに呑込んで悔い改むる人があればいいが、唯物的に固まってなかなか

受入れぬ。すると、うまく聖書を利用して観音教を宣伝するなどと思ってい

る。然し、今度そういふ事態が出れば初めて気がつく。観音教の信者だけが

救はれる訳ではなく、間違った考えの人は助からぬ。他宗教でも立派な人は

救はれる。ただ観音教では、掃除するのに、掃除の力が多い。他宗教で一年

で掃除するのを一月位で出来る。今迄の宗教でははっきり判らぬ。こっちは

外よりはっきり判る。早くわかる。又「力」も多いので世の中の人を掃除す

る。



教団も組織が変る。二月四日から変える。今準備している。いよいよ変る

時が来た。数は非常に関係がある。一九五○年は五となり、五十一年は六と

なり、来年五十二年は七になる。

五六七となるが、五が一番ミロクの数で意味がある。六は一番苦しい数

大変りがある。世界もそうで、ただではすまぬ。追々差支へない限り話す。

今年は吾々信仰者として働き甲斐がある。活動舞台に上る訳である。それに

出来る限り本と新聞を読み、信仰的智識を磨く事である。





  十二、 万病一元論    (医講  昭和十年)


病気の原因は、霊体の曇りであり、曇りの原因は罪穢である

といふ事は、各項に於て述べた通りであるが、今一つ、茲に、科学的に電子

説を藉りて述べる事にする。凡ゆる物質は、陰電子と陽電子、即ちミクルト

ンとエレクトンとの両電子の運動に由って原子が生れ、その原子の集合体が

分子であり、それが物質の原素であるといふ所迄は、科学に依って明らかに

なったのであるが、此病気の元素も同一の理に依って説明が出来るのであ

る。某ドクトルが、万病はすべて梅毒が原因であるといふ説を称えてゐる

が、是等も一理あるのである。

抑々、病気一切は、霊の方面から言へば、曇であり、体の方面から言へば

膿である。今、霊の方面より述べんに、電子説が称える陽電子エレクトン一

個へ対し、陰電子ミクルトンが八つの数を以て、非常な速度で、左進右退し

つつ廻転してをるといふのであるが、それは、全く事実であって、凡ゆる森

羅万象は、結成の場合の活動は左進右退であり、解体のそれは右進左退

ある。此理を以て、光のリズムは左進右退にして、暗黒のそれは右進左退

るあ。善は左進右退にして、悪は右進左退である。太陽の光は、熱にして左

進右退であり、月光は冷にして、右進左退である。故に、森羅万象は左進右

退と右進左退との、交互錯綜に依って明暗熱冷、陽陰、火水、男女、其他、

凡ゆる形体が結成と解体、創造と破壊を繰返されつつ、進化しつつあるので

ある。



爰に、霊体の一部に、曇が生ずるとする。霊体全部は左進右退に係はら

ず、曇の部分は右進左退のリズムに変化するのである。即ち、右進左退は破

壊であり、暗黒であるから、その部分は潰滅運動を起すのである。言ひ換へ

れば、一部分が潰(ツイ)えの道程を辿り始めるのである。それが、全身的に拡

充されたる暁が死である。故に、曇が部分的の時に、霊光に照らされれば、

容易に潰滅して、健康は恢復するのである。此曇にも、濃淡、種別、形状

の、千差万別あるは勿論である。恰度、大空に漂ふ雲の変化と、或意味に於

て、同じ点もあるのである。



次に、体的方面を説かんに、曇の物質化は膿である。此膿は、恰度、

物質を形成する電子でもあるが、唯違ふのは、電子は左進右退に由って、無

から有を生ずるに反し、之は、有を無に変ぜしむるのである。人体を構成し

てゐる物質は有である。其筋肉臓器骨等を無に還元する処の右進左退の破

壊作用が行はれるのである。即ち、膿其物は、肉体を潰溶すべき性能の物

である。それは、霊体の曇の右進左退に追随するのであるから、病気治癒

の原則は、霊体の曇の解消より外には、断じて無いのである。序に曰はんに、

曇の根元は、度々言ふ通り、罪穢であるから、其罪穢なるものは悪であり、

悪は、右進左退のリズムであるから、相応の理に由って、終局に於て、其儘

のリズムが、病気となって現はるるのである。



故に、膿にも、各種の段階があって、稀薄にして、弱勢なる物は普通の膿

であるが、それが濃度を益す場合、結核であり、一層濃度を増し、頑固性に

なった物が癌である。併し、之は、別の方面から言はなければ徹底しないの

である。即ち、膿の弱勢といふ事は、肉体の方の活力の強い為であり、膿の

強性となるのは、肉体の活力が衰へてゐる訳になる。此理を以て、最初、弱

性であった膿も、永い病気の裡に、肉体の衰弱を来し、終に強性に変化する

といふ事が少くないのである。此理を、医家は知らざるが故、腫物の発生す

るや其腫物を散らさんと、氷で冷し、又は、散らす性能の薬剤塗布を行ふ

である。然るに、之が恐るべき誤法にして、折角、自然に腫れて、膿汁が排

出すれば、容易に治癒すべき腫物を、此誤法の結果、腫るる機会を失ふを

以て、其膿汁は、他の方面を求めて腫るるのである。斯の如くなれば、其腫物

は、大抵の場合、数ケ所に現はるるのである。然るに、此際は、患者は、相

当の衰弱状態になるを以て、膿汁を出す程に腫るる勢なく、荏苒(ジンゼン)日

を経るに従ひ、漸次、衰弱の度を増し、生命を失ふ迄に到るのである。



斯の如く薬剤の如何に恐るべきかを説いたのである。故に人間の肉体的に

絶対薬剤を入れざれば、血液は純潔なるを以て頗る健康を保持さるるのであ

る。私の説を聴いて覚醒し薬剤から全く離れたる人が時日の経るに従ひ年々

健康を増進する事実は例外がないといっても宜いのである。百の理論よりも

一の事実に如かず。国民の保健上到底黙視する事は出来ないのである。若

し統計が作られるならば、結核よりも伝染病よりも、此薬剤中毒の為に仆れる

者の数の方が幾層倍多い事であらう事は私は断言し得らるるのである。





  御教え集32号      昭和二十九年三月七日

(前略)肥料はそういう工合としても、その次は薬です。この薬が大変な

いけないものだという事が社会の輿論になるわけですが、これは肥料のよう

なわけに簡単にはゆきませんが、しかしいずれはそうなるに決まってます。

神様がそういう機会を与えます。(中略)これは神様がそういう時期を作ら

れるわけです。ですからいずれ薬の方も、神様はチャンとそういう時期を作

られるに違いないですから、そうなって世の中は本当に良くなるわけです。

それで薬について書いてみましたが、薬というものは全然科学性はないので

す。つまり迷信です。その、薬に科学性がないという事について書いてみま

した。



 御論文 「薬剤は科学?」
              (栄二百五十四号  昭和二十九年三月三十一日)

『世間よくこの薬は効くとか、アノ薬は効かないなどと言われるが、これを

吾々からみると洵に滑稽である。それはどういう訳かというと、驚いてはい

けない、薬が効くのと病気の治るのとは似て否なるもので、根本的に異

っている事である。という訳は薬が効くというのは苦痛が一時治まるだけの

であって、病気そのものが治るのではないこの点最も肝腎である

から心得て貰いたいのである。というのは抑々医学の考え方は病気と苦痛と

は離るべからざる一体のものと解しているからで、苦痛が治れば共に病気も

治ると思っており、病気と苦痛との判別がつかなかったのである。従って医

学が如何に進歩したとて、病気の治らないのは当然である。処が私はこの理

を発見したのであるから、忌憚なく言って世界史上空前の大発見といっても

過言ではあるまい。



ここで病理についてザットかいてみるが、病気とは薬毒の固りに対し、自

然浄化作用が起って排除される苦痛であるから、言わば発病が主でそれ

に苦痛が伴なうのである。それを医学は間違えて、苦痛が主で病気が伴なう

ように思ったので言わば主客顛倒である。この逆理によって薬を以て苦痛を

抑える。この考え方で生まれたのが医療である。然も一層厄介な事は、

が毒化し病原となる事も知らなかったので、二重のマイナスである。これ

が医学の進歩と思っているのであるから、その愚度すべからずである。それ

を知らないが為臨床家などが、学理通りに治らないので、常に疑問を抱いて

いる話もよく聞くが、さこそと思われる。その証拠として新聞広告などに出

ている売薬の広告を見ても分る通り、決して治るとはかいてない。何々病に

は効く、苦痛が減る、好転する、元気になる、強力な効果がある、血や肉を

増す、予防にいい等々、それをよく物語っている。

然も薬で苦痛が緩和する理も科学的説明は出来ないのは、何々の薬を服め

ば効くとするだけの事である。丁度未開人が禁厭(マジナイ)等で治すのと同様

でしかない。何よりも新薬を作ろうとする場合、本来なら最初理論科学が生ま

れ、次いで実験科学に移るべきだが、そんな事はないらしい。というのはそ

の殆んどが偶然の発見か、推理による実験であって、それ以外は聞いた事が

ない。その例として前者は英国の或学者が、医学に関係のない実験の際、偶

然発見された青苔の一種が彼のペニシリンであったり、後者である独逸のエ

ールリッヒ、日本の秦両博士の合同発見による彼のサルバルサンにしても、

六百六回の実験の結果、漸く完成したのであるから、これは根気戦術による

マグレ当りで学とは何ら繋がりがない事である。



又凡ゆる病菌にしても、何十年前から研究を続けて来たに拘らず、今以て

決定的殺菌剤は生まれない事実である。又近来発見の御自慢の抗生物質に

しても、最初は素晴しい評判だったが、近頃になって逆効果を認め再研究に

取掛ったという話も最近聞いたのである。これらにみても何病に限らず、決定

的効果ある薬はまだ一つもないのであって、それだからこそ次から次へと

新薬が生まれる訳である。故にそのような不確実な薬剤を以て病を治そうと

するなどは寧ろ冒険というべきであろう。又医学では動物実験を唯一の方法

としているが、これなども科学的根拠は全然なく、単なる推理臆測によっ

て、多分この薬なら効くだろうというマグレ当りを狙ったものであるのは、

効かない場合次から次へと何回でも試してみるによっても分る。それが為一

種類の動物を数千匹殺しても尚成功しないという話もよく聞くのである。

 私は科学者ではないが、真の科学とはそんなアヤフヤなものではなく、確

実な合理的根拠によって研究し、真理を把握したものであって、効果も決定

的で永久性であるべきである。それがどうだ、或期間がすぎると無効果

となり、次から次へと新薬が生まれるとしたら、どこに科学的理論がある

であろうか。丁度流行品と同様薬にも流行り頽りがある訳で、一種の商品で

ある。苟(イヤシク)も人間生命に関する重要なるものとしたら許さるべきではあ

るまい。然も多くは短期間の実験によって売出すのであるから、若し効果の

ない場合、詐欺行為ともなるであろう。よく新薬発表当時救世主の如く仰が

れたものが、いつの間にか消えてしまうのも、軽率の譏りは免れまい。その

為犠牲になる大衆こそ一種の被害者であり、売薬業者に米櫃(コメビツ)にされ

る訳である。敢えて当事者に警告を与える所以である。』



これは、科学ではないという事をザット説明したのですが、これを大きくみ

ると、人間の一切の悩み、例えてみれば犯罪ですが、犯罪の原因も薬毒

のです。今度の汚職問題で偉い人がみんな引っ掛って苦しんでますが、これ

の因の因は薬毒なのです。つまり、薬毒が溜ると霊が曇ります。霊が曇ると

邪霊(動物霊)が活躍ができますから、そこで内証(ナイシヨ)で変な金を手に入

れたりすることになります。その薬毒のために霊が曇るから動物霊が活躍す

るのですが、そうするとまず大いに芸者買いしたり、酒を飲んだりマージャ

ンをやったり、いろんな事をする、それはみんな動物霊の指図と言い得ま

す。そうしてそれには金が要る、そうしてうまくやればよいというのでいろ

いろな事をやるのです。そうすると結局において薬が罪人を作っている

けです。



 犯罪者を生んでいるわけなのだから、薬毒というのは病気ばかりではない

のです。言わば、肉体的病気ばかりでなく、精神的病気も作っているわけで

す。凡ゆる悪の面、人間の悩み苦しむその原因は全部薬なのです。人類

から薬というものを抜けば、地上天国もミロクの世も出来るのです。とに角

救世(メシヤ)教というのは世の中から薬を無くするというのが根本の仕事

です。

そんな恐ろしいものを盛んに売っており、又奨励しているというのだから、

実に世の中は間違いも甚だしいのです。今新聞広告で一番よく出ているのは

売薬の広告です。ラジオの民間放送というと、薬屋の宣伝が一番です。殆ん

ど薬で、その他の商品などは僅かです。それほど恐ろしい物をこれほど大騒

ぎをやって奨励して、飲ませようとしているのだから、如何に世の中が間違

っているかという事がよく分ります今まで人間に"薬は良い"という観念が

しみ込んでいるのですが、これが"あべこべなものだ"という事を分らせるの

が大変です。それで浄霊を受けて病気が治った人は分りますが、それを急に

早く分らせようとしても、なかなか無理なので、そこでやはり神様はチャン

と、一ぺんに分るような仕組をされてあるのですから、それも時期です。



 とに角人類の一切の不幸は薬が因と思っていればよいです。それ

薬が無くなったらどうなるかというと、人間の寿命は必ず百歳は生きる

です。人間の寿命が百以上は生きるという事になったら、こんな結構な有難

い事はないと思います。救世教に入れば百歳以上は生きるという事が分った

ら、みんな救世教信者になります。"そんな馬鹿な事があるものか、人を馬鹿

にしてやがる、宗教宣伝のためにうまい事を言ってやがる"と、最初は思いま

すが、"とに角入ってみろ"というのも非常によいと思います。





  或体験、反対者一変す
                   『栄光』109号、昭和26(1951)年6月20日発行
                       静岡県富士宮市城山  みのり中教会 内藤一郎

 一昨年一月ある所へ布教に行った時あまり広くもない部屋に百名足らずの

人々が集り、私に何かと質問をしていました、そこへ外から大声をたてて、

「俺はまだお観音様に一度も食べさせて貰った覚えもないし恵みを貰った事

もない、それだのに俺の女房は朝から晩迄お観音様が有難いとお辞儀をした

り人に話をしたり、いまいましい事だ、今日はお観音様だか、お前様だかが

シャッポを脱ぐか俺が恥をかくか返答してくれ」と言いながら四十五、六歳

位の大男が私の前にドッカと座りました。



 そして驚いた部屋中の人々の注目を尻目に「さあお観音様がそんなに有難

くて偉いならこの俺をすぐ殺してみろ、八人の家族をこの腕一本で毎日樋直

しをしてどうやら今日まで養ってきたのだ、がもう働くのは厭になった、医者

は一本の注射で人を殺す事が出来るというが、お観音様はそれ以上の力が

あると聞く、それが真実なら二日以内に俺を病気にしてみろ、そうしたら成

程お観音様は大した力だと思って俺も信者にして貰おう、だからここではっ

きり約束してくれ」と血相変えて威丈高にわめきたてた。

 私は即座に「承知しました、二日以内でなく直にご浄化のいただけるよう

お願いしてあげます、その代り今度は私からも約束を願いましょう、これか

ら帰ればきっとお望みの通り死ぬ程切ないお浄化がくる事と思います、その

時にお観音様は無慈悲な方だ、八人もの扶養者の私をこんなに苦しませず許

してくれても良かりそうなもの等とは決して言わぬようにして下さい」と、

これを聞いて居合せた顔みしりの人達は口々に「お前それは無理というもの

だ、いくらお観音様でも二日以内と日を定められてはお困りだろう、まあ少

し落ちついて話てゆくがよい」と言うと「とんでもない、もうさっきから頭

がわれそうになっている、こんな所にいつまでもいられるものか」と言いな

がら荒々しく帰って行った。



 隅の方で一部始終を黙って聞いていたその人のおかみさんは、恥ずかしさ

に顔も上げられず、泣きながらお観音様にお詫び申上げていました、そのふ

びんさに私は「心配はいりません、すべてお観音様がよいようにして下さい

ます信仰は夫婦親子でも無理にすすめてはいけません一切お願いして

時を待たれる事が大事です、さああなたはすぐ家にお帰りなさい、そうし

て旦那がきっと苦しんでいるでしょうから心からお浄めさせていただきなさ

い」と慰めて帰る事をすすめた。


 
 さてその翌朝私は予定に従い、七時の汽車でまた別の方面へと布教に出か

けました、そのあとを一汽車遅れ追いかけるようにして前夜の信者の一人が

私を訪ねてきました、何事かと聞けば、昨夜の男のおかみさんが、私の発っ

た後に来て「あれから主人が夜中頭がわれそうに痛み、あまりてきめんのご

浄化に漸くお観音様のお力の偉大さを知り誠にすまなかった、先生に一言お

詫びがしたい、是非行ってきてくれ」との言葉におかみさんが大喜びで先生

の許に飛んで来ましたが、生憎おたちになった後でしたので、私が頼まれて

まいりましたと、このたった数時間の苦しみにて長い年月汚れてきた、精神

も肉体も慈悲の御手に御救いいただき、その日より神の尊さを知り大酒をつ

つしみ、一心に働きだし、丸一年後には尊きお教修をいただき、遂に無神論

者変じ大信仰者にさせていただき、今は御守護御恵みの下に毎日を楽しく送

らせていただいております、誠に有難うございました、本人よりの御礼の言

葉を伝えさせていただきます。

 

 




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