簡 単 講 座




                      〔焦らず 怒らず 怠らず〕


第 3 講 (1)
                                                     

     〔第 三 講〕 (この項は全て「御教え」、年代順に掲載)



1 大光明世界の建設  宗教の使命 (観運  昭和10年9月15日)

2 大光明世界の建設  真の救ひ  (観運  昭和10年9月15日)

3 大光明世界の建設  膏薬張の救ひ(観運  昭和10年9月15日)

4 幸福への道    (明医一 昭和18年10月5日)

5 幸 福     (地天1号  昭和23年12月1日)

6         (信 昭和24年1月25日)

7 常 識      (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)

8 正しき信仰    (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)

9 信仰の醍醐味   (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)

10 下座の行     (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)



11 我と執着     (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)

12 観音信仰    (地天3号  昭和24年4月20日)

13 神懸り宗教   (光号外  昭和24年5月30日)

14 信仰は信用なり (光13号  昭和24年6月18日)

15 順  序       (昭和24年8月30日)

16 転向者の悩みに応う(地天11号  昭和24年12月20日)

17 誠の有る無し   (光47号  昭和25年1月28日)

18 日と月     (自叢12  昭和25年1月30日)

19 我を去れ       (救50号  昭和25年2月18日)

20 新人たれ        (昭和25年10月11日)



21 優しさと奥床しさ (栄75号 昭和25年10月25日)

22 解  脱           (昭和26年1月25日)

23 程とは          (昭和26年8月8日)

24 これも慢心   (昭和26年9月12日)

25 世界人たれ     (昭和26年10月3日)

26 浄霊と幸福    (地天34号・昭和27年3月25日)

27 人を裁く勿れ   (栄157号  昭和27年5月21日)

28 「御  教  え」   (御教え集12号 昭和27年7月27日)

29 薬が不幸を作る  (地天44号、昭和28年1月25日)

30 裁く勿れ       (栄208号  昭和28年5月13日)

31 感じの良い人    (栄257号 昭和29年4月21日)





        〔第 三 講〕


 ここではたくさんの御教えの中から、処世上重要である基本的な
メシヤ様のお言葉(御教え)の一部を紹介します。
自分の魂の向上、
人格の向上を目指す上に於いて非常に大切な教え
なので、日々拝読
し実践して自分の身につくように努めてください。




   大光明世界の建設宗教の使命
                            (観運  昭和10年9月15日)

 今日の宗教と名の付くものが、大部分は宗教本来の使命を、没却
してゐる
のは、困ったものである。
大宗教団の多くが、社会事業
が、重なる仕事になってしまって、病院や養老院や、孤児院などを
営(ヤ) ってゐる
が、本当の意味から言へば、是等は、都市の公共事
業か、富豪の慈善事業の範囲である。
宗教が社会事業を、行ると言
う事は、最早それは、宗教ではなくなっている


 又宗教は、教化事業でもない、教化事業は文部省あたりの仕事で
ある。又、宗教は、道徳でもない。倫理道徳は、教育家の任務であ
る。又宗教は哲学でもない。世に、宗教哲学などといふ言葉や、ク
リスチャンサイエンスや、神学なぞといふ言葉があるが実に、誤れ
るの甚しきものである。宗教は宗教である。哲学は哲学である。科
学は科学である。


宗教は、あらゆる分野の最高峰に、超然と立って、普く人類を救う
べき最大権威と力を有って居るべきもの
である。唯然し、宗教の一
部としては、教化も、道徳も、哲学も、科学も含まれている事は、
否めない。故に
宗教は宗教としての、独自の使命があって、一切衆
生の
霊体を不幸から永遠に脱却さす事
である。教化や道徳や、倫理
や哲学では
一時的の救ひである。無量無辺に、魂を救う事は出来な
のである。

 


    大光明世界の建設  真の救ひ 
                         (観運  昭和10年9月15日)

 真の救ひとは、永遠に、魂を救う事である。又、一生を通
じての抜苦与楽(バックヨラク)
である。それが出来なければ、宗教とし
ての価値はない
のである。病気を治さないで、慰安をして与る事よ
りも、
病気を治して、健康体にしてやるのが、真の救ひ
である。
乏を我慢しつつ、安心立命せよと言うよりも、
金に困らないやうに
してやるのが、真の救ひ
である。

此世は厭離穢土(オンリエド) であり、火宅(カタク) であり苦の娑婆である
から諦めよ、我慢せよ、悟れよ、と言ふよりも、
斯ういう苦悩の娑
婆をして、天国楽土たらしむべく、積極的に活動するのが、真の救

である。其の救ひの効果的現はれに由って其宗教の価値が定まる
である。


然し、それ等の事は、私が言ふ迄もなく世の宗教家達は、みんな、
知り抜いている筈である。然し、いくら知りぬいて、努力はしても
どうにもならないから、是非なく、苦のまま諦めろと言ひ苦のまま
安心立命せよと説くのは、余儀ない事である、一種の遁道である。
そんな諦めの鼓吹ではいくら笛を吹いても、大衆は踊らない、イク
ラ太鼓を叩いても集まらない、是に於て、社会から、宗教は、無用
の存在として非難を享ける、それが苦しいのだ、苦しいから何かを
行らなければならない。其防弾チョッキ
としての、宗団の社会事業
経営
なのである。


寧ろ同情すべきではあるが、どうか一日も早く、宗教本来の使命に
覚醒して、真の救ひに精進して貰いたいのである 。最後に言ふ、

人間の智慧でやる。宗教の最後は、社会事業となって了う。神の力
と、
神の智慧で行く宗教は、奇蹟から奇蹟で、本当に世を救ってゆ





     大光明世界の建設  膏薬張の救ひ
                              (観運  昭和10年9月15日)

 病気になっても、医者にかかれない人や貧乏で食えない人、可哀
相な老人、孤児等を救ふ機関は、益々、社会的に完備してゆく、救
世軍は、慈善鍋で貧民を喜ばせる、夫等の事は、確に良い事だ、無
いよりも在った方が、どれ程いいか判らない。


 然し、夫等不幸な人達が、後から後から手の廻らない程出来ると
いふ、其根元の浄化の方がヨリ重大な事ではなからふか


 其処に宗教の使命がある。警官の数は、人口の増加率よりも増え
るそうだ。裁判官は迚も手が足りないので、出来る丈早期判決を下
す方針にしたといふ事だ。監獄も、気狂病院(キチガイビョウイン) も、ど
んどん建て増してゆく。是等も社会情勢に対する、止むを得ない施
設ではあるが、名誉ではない。


 斯ういふ社会の事象を観る時、宗教家として、安閑としては居ら
れない筈だ、それら
社会悪の真因は、何処に在るのか一切の事
は原因が在って、結果が在るのだ、而し原因よりも、其結果を救う
事が、社会事業や、警察や裁判所の専門的仕事である。
凡ゆる罪悪
と不幸の原因は何か
。それは人間の魂である。其魂を浄化してこ
そ、社会は良くなる
のである。宗教としての使命も、其処にある
これこそ他の何者も企及し難い権威であり、それが宗教の貴い存在
意義
である。之を他所(ヨソ)にして、宗教の意義は無いのだ。


 とはいふが、今日の宗教家も、相当活動はしている。説教所、教
会、寺院、布教師、教誨師、説教師など、幾十万か、数え切れない
程ある。それだのに、社会悪が、愈々益々増えるといふ事は不思議
な話だ、教化する者の、努力が足りないのか、怠けてゐるのか、
否、なかなかそうではない。彼等は、教壇に、路傍に、個人に、声
を嗄(カ) らして努力してゐる。それだのに、期待する結果が得られ
ないといふ事は、其処に、何かなくてはならない。


 夫等の難問を、悉く解いて了う、力の宗教が、我観音会で観音運
動である





    幸 福 へ の 道
                                  (明医一 昭和十八年十月五日)

 凡そ如何なる人間と雖も幸福を希はぬ者は一人もあるまい。全く
幸福こそ、人間の欲求としての最大のものであり、最後の目標でも
あらう。そうして
幸福の最大条件としては、何といっても病気の無
い人間、病人の無い家族之以外にない
であらう事は余りに明白であ
る。


然し乍ら、今日迄の世界に於て、全く無病たり得る事は不可能であ
るばかりでなく、現在健康であっても、何時如何なる場合に、何等
かの病気が発生するかも知れないといふ不安
何人と雖も抱いてゐ
のである。而も、偶々病気に罹るとして、それが容易に治癒すべ
きものであるか、或は容易に、治癒し難いものであるかといふ事も
全然予測がつかないのであるから、実に不安此上もないのである。


斯様な理由によって、順調な境遇にある人も成功者になった人とし
ても病気に対する不安がある為、真の幸福に浸り得られない
といふ
のが事実である。


 そうして、凡ゆる不幸の根源は病気である事は曩に再三説い
た通りである。
貯蓄の目的の大方は、罹病した時の用意であり、健
康保険も生命保険もそれが為である。孤児院も養老院も共済会も方
面事業や、凡ゆる社会事業も、それが為であらう。


 従而、国家が如何なる理想的政治を行ふも人間の病患を解決なし
得ない限り、国民の真の幸福はあり得ないのである。洵に
健康こ
そ幸福の根本
であり、否幸福の全部であるといっても可いであら
う。然るに今日迄、根本的に病患の解決をなし得る医術も方法も、
全然無かった
事である。


 私は、大言壮語するのではない。私の創成した日本医術と健康法
によれば、人間をして病患の不安から全く解放なし得る
事は、既に
述べた通りである。故に
私は、私の医術を知る人にして初めて幸福
人となり得るといふ事を断言する
のである。何千年以来、人類が要
望して熄(ヤ)まなかった所の"幸福への道"は、既に拓かれた
のであ
る。





       幸 福                (地1号  昭和23年12月1日)

 古往今来、如何なる人間と雖も幸福を冀はぬ者はあるまい。幸福
こそ実に人間最初にして最後の目標
であるからである。幸福を獲ん
が為の学問であり修養であり努力であるに拘はらず、満足に掴み得
る者は果して幾人あるであらうか。大部分は幸福を獲得せんと思ひ
続けつつ反って不幸の境遇にあり、解決の喜びを遂げらるる事なく
して不帰の客となるといふのが一般人の現実である。然らば幸福を
得るといふ事はそんなに難しいものであらうか、私は否と言ひ度い
のである。


 抑々幸福とは、病気貧乏闘争、此三大問題の解決が基本である事
は誰も知る処であるが言ふは易く実現は難く大抵は諦めるの余儀な
きに至るのである。一切は原因があって結果がある。勿論幸福とて
も同様であるとすれば
その原因を先づ知る事こそ問題解決の出発点
であらねばならない。

 従而その原因に不明である以上、何程努力しても実現の可能性は
ないに決ってゐる。然らばその原因とは何か、それを私は述べてみ
よう。昔から言ふ処の
善因善果、悪因悪果とは実に千古を貫く真理
である。

此理を知って他人を幸福にする為に努力する事こそ、自分自身を幸
福にする絶対的条件
であらねばならない。処が世の中には他人の不
幸を顧みずして自分だけが幸福にならうとする人間があまりにも多
事である。一方不幸の種を播きつつ幸福の実を得ようとするので
あるから、全く愚かな話である。恰度水を押すと手前の方へ流れ、
引くと先へ流れるのと同様である。


 宗教が人間にとって如何に必要であるかは此点にあるのである。
即ち
キリスト教の愛といひ仏教の慈悲といふのも他人を幸福にする
利他的観念を植付けるのが本義
である。此様な簡単な道理も人間は
なかなか認識し難いものである。そこで神様や仏様は種々の教義を
作り、心言行の規準を示し、見えざるものの存在を教へ、取次者を
して誠心誠意信仰に導く
のであるが、一人の人間を救ふにも容易な
ものではないのである。


それも無理はない、一般人は見えないものは信じないといふ教育の
下に唯物思想に固ってゐる
ので、仲々耳を傾けようとはしないので
あって、迷夢に鎖され暗黒の中を彷ひ苦しみながら、結局帰らぬ旅
路へ赴くのであるから、洵に儚ない人生といふべきである。


 然るに、生あるうちに歓喜に浸り法悦の境地に住し長寿を得、真
の幸福者たり得る方法
がありとすれば正に此世は天国であり、生甲
斐があるといふべきである。然し乍らいふであらう。此様な苦の娑
婆に居てそんな幸福者たり得る筈がないと諦めてゐる人が一般人の
考えであらう。然し吾等は断言する。右の如き
幸福者たり得る秘訣
のある事で、それを御伝授する手引として先づ此雑誌を提供するの
である。





                             (信 昭和二十四年一月二十五日)

 世界も、国家も、個人も、凡ゆる問題を解決する鍵は『誠』
一字
である。
 政治の貧困は誠が貧困だからである。物資の不足は誠が不足して
ゐるからである。

 道義の頽廃も誠のない為である。秩序の紊乱も、誠のない所に発
生する。

 凡ゆる忌わしき問題は誠の不足が原因である。
 宗教も学問も芸術も、中心に誠がなければそれは形骸でしかな
い。
嗚呼、誠なるかな誠なる哉、人類よ、
問題解決の鍵は、ただ誠
あるのみ
である。




        常  識             (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)

 抑々、真の信仰とは言語行動が常識に外れない事を主眼としな
ければならない
。世間よくある神憑式や、奇怪な言説、奇矯なる行
動等を標榜する信仰は先づ警戒を要す
べきである。処が多くの人は
そういう信仰を反って有難く思う傾向があるが、之等は霊的知識の
無い為で無理もないが、心すべきである。又自己の団体以外の人々
と親しめないというような独善的信仰も不可
である。


真の信仰とは世界人類を救うのが宗教の使命と信じ、自己の集団
のみにこだわらず、排他的行動をとらないようにするのが本当
であ
る。恰度一国の利益のみを考へ他国の利益を無視する結果、惨澹た
る敗戦の苦杯を甞める事になった終戦前の日本を鑑みれば判るであ
ろう。



 私は信仰の究極の目的は、完全なる人間を作る事である
とも思う。勿論
世の中に完全という事は望み得べくもないが、少く
とも完全に一歩々々近づかんとする修養−−之が
正しい信仰的態度

である。故に信仰に徹すれば徹する程平々凡々たる普通人の如くに
見えなくてはならない
。そうなるのは信仰を咀嚼し、消化して了っ
たからである。


その人の言動が如何にも常識的であり、万人に好感を与え、何を信
仰してゐるか判らない位にならなければ本当ではない。人に接する
や軟かき春風に吹かれる如くで、謙譲に富み親切であり、他人の幸
福と社会福祉の増進を冀(ネガ)うようでなくてはならない


私は常に言う事であるが、先づ自己が幸福者たらんとするには他人
を幸福にする事で、それによって与えらるる神の賜が真の幸福
であ
る。然るに自己のみの幸福を欲し他人を犠牲にするというが如きは
全く逆効果以外の何物でもない事を知るべきである。





       正 し き 信 仰
                                 (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)

 支那の碩学朱子の言に「疑は信の初めなり」という事があるが、
之は全く至言である。私は
「信仰は出来るだけ疑へ」と常に言う
である。世間種々の信仰があるが、大抵はインチキ性の多分にある
ものか、そうでない迄も下の位の神仏や狐、狸、天狗、龍神等を的
(マト)としたものが多く、
正しい神を的とする信仰は洵に少ないので
ある。


従而厳密に検討を加える時、大抵の宗教は何等かの欠点を包含して
ゐるものであるから、
入信の場合何よりも先づ大いに疑ってみる事
である。決して先入観念に捉われてはならない何程疑って疑(ウタ
グ)り抜いても欠点を見出だせない信仰であれば、それこそ信ずる
外はない
であろう。

然るに世の中には最初から「信ずれば御利益がある」といふ宗教が
あるが、之は大いに誤ってゐる
。何となれば些かの御利益も認めな
い中から信ずるといふ事は、己を偽わらなければならない。


故に最初はただ触れてみる。研究してみるといふ程度注意深く観
察し、出来るだけ疑う
のである。そうして教義も信仰理論も合理的
で非の打所がないばかりか、神仏の御加護は歴然として日々奇蹟が
ある程のものであれば先づ立派な宗教として入信すべき価値があ


又斯ういう宗教もある。それは信者が他の宗教に触れる事を極端に
嫌う
のであるが、之等も誤ってゐる。何となればそれはその宗教に
欠点があるか、又は力が薄弱である事を物語ってゐる
最高の宗教
であればそれ以上のものは他に無い筈であるから、他の宗教に触れ
る事を恐れる処か反って喜ぶべき
で、
其結果自己の信ずる宗教の優
越性を認識し、却って信仰は強まる事になる
からである。

 然し斯ういう事も注意しなくてはならない。それは相当の御利益
や奇蹟の顕はれる場合である。正しい神仏でも人間と同様上中下あ
り、力の差別がある。二流以下の神仏でも相当の力を発揮し給うか
ら御利益や奇蹟も或程度顕われるので、大抵の人は有難い神仏と思
い込んでしまう。


処が長い間には二流以下の神仏では往々邪神に負ける事があるか
ら、種々の禍いとなって表われ苦境に陥る場合がある
が、一度信じ
た以上何等かの理屈を附け、神仏の力の不足など発見出来ないばか
りか、反って神仏の御試し又は罪穢の払拭と解するのである。


 信仰者にして病気災難等の禍いがあり一時は苦しむが、それが済
んだ後はその禍い以前よりも良い状態になるのが、
上位の神仏の證
である。即ち病気災難が済んだ後は、罪穢がそれだけ軽減する結
果霊的に向上したから
である。それに引換へ禍いが非常に深刻であ
ったり長期間であったり、絶望状態に陥ったりするのは、その神仏
の力が不足の為邪神に敗北したからである。


 世間よく凡ゆる犠牲を払ひ、熱烈なる信仰を捧げて祈願するに関
わらず思うような御利益のないのは、その人の願事が神仏の力に余
るからで、神仏の方が御利益を与えたくも与えられ得ないという訳

である。

此様な場合、これ程一生懸命に御願いしても御聞届けがないのは、
自分は最早神仏に見放されたのではないかと悲観し、此世に神も仏
もあるものかと思い信仰を捨てたり自暴自棄に陥ったりして益々悲
運に陥るという例はよく見る処である。


斯ういう信仰に限って断食をしたり、お百度詣りをしたり茶断ち塩
断ちなどをするが、之は甚だ間違ってゐる
個人的にどんな難行苦
行を行ったとしても、それが社会人類に些かの裨益する所がなけれ
ば徒労に過ぎない
訳で、斯ういう方法を喜ぶ神仏があるとすれば勿
論二流以下の神仏か又は狐狸天狗の類
である。


故に正しい神仏であれば、人間が社会人類の福祉を増進すべき事に
努力し、その効果を奏げ得た場合、その功績に対する褒賞として御
利益を下し給うのである。


序でに注意するが昔からよく「鰯の頭も信心から」と謂う事がある
が、之は大変な間違い
であって、すべて信仰の的は最高級の神
仏でなければならない
。何となれば高級の神仏ほど正しき目的
の祈願でなくては御利益を与えて下さらない
と共に、人間が仰ぎ拝
む事によって清浄なる霊光を受けるから、漸次罪穢は払拭される

である。


鰯の頭や低級なる的に向って如何に仰ぎ拝むとも、低級霊から受け
るものは邪気に過ぎない
から、心は汚れ自然不善を行う人間になり
易い
のである。それ等を知らない世間一般の人は、神仏でさえあれ
ば皆一様に有難いもの、願事は叶えて下さるものと思うが、それも
無理はない。尤も昔から神仏の高下正邪等見分け得るやうな教育は
何人も受けてゐないからである。


そうして狐、狸、天狗、龍神等にも階級があり、力の強弱もあり、
正邪もあるが、頭目になると驚くべき力を発揮し大きな御利益を呉
れる事もあるから信者も熱心な信仰を続けるが、多くは一時的御利
益で、遂には御利益と禍いとが交互に来るというような事になり、
永遠の栄は得られないのである。以上説く処によって、
信仰の場合
一時的御利益に眩惑する事なく、其識別に誤りなきよう
苦言を呈す
るのである。





      信 仰 の 醍 醐 味
                            (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)

 私は信仰の味に就て世人に告げたいのである。天下何物にも味の
ないものはない。物質にも、人間にも、生活にも、味の無い物は殆
んどあるまい。人生から此味を除いたら、文字通り無味乾燥全く生
の意欲は無くなるであろう。従而
人間が生に対する執着の根本は、
味による楽しみの為
である−−といっても過言ではあるまい。信仰
にも味のある信仰と味の無い信仰とがある
のは当然である。

処が世の中は不思議なもので、恐怖信仰といふのがある。それは
仏を畏怖し、戒律に縛られ、窮屈極まる日を送り、自由などは全く
無く、常に戦々兢々たる有様
で、斯ういふ状態を私は信仰地獄とい
うのである。


 本来信仰の理想とする処は常に安心の境地に在り、生活を
楽しみ、歓喜に浸るというのでなければならない。花鳥風月も、百
鳥の声も、山水の美も、悉(ミナ)神が自分を慰めて下さるものである
ように思われ、衣食住も深き恵みと感謝され、人間は固より鳥獣虫
魚草木の末に到るまで親しみを感ずるようになる。之が
法悦の境
であって何事も人事を尽して後は神仏に御任せするとい
ふ心境にならなければならない
のである。

 私は常に、どうしても判断がつかぬ難問題に逢着した時、観音様
に御任せするといふ事にして、後は時を待つ
のである。処が想った
よりも良い結果を得らるる
事は幾多の体験によって明かである。殆
んど心配したやうな結果になった事は一度も無いといっても可い。
種々の希望を描くが、その希望よりも必ず以上の結果になるから
面白い。


斯ういう事もある。何か悪い事があるとそれを一時は心配するが、
きっと
良い事の前提に違いないと思い、神様に御委せしてゐると、
必ず良い事の為の悪い事であった事が判り、心配したのが馬鹿らし
くなる事さえ往々ある
ので、実に感謝に堪えない事がある。要する
私は奇蹟の生活者と思ってゐる。私が言う信仰の醍醐味とは即ち
此様な次第
である。





      下 座 の 行 
                            (「信仰雑話」より 昭和24年1月25日)

 下座の行という詞(コトバ)は昔からあるが、之は人間処世上案外
重要事
である。しかも信仰者に於て殊に然りである。信仰団体など
に、教義を宣伝する先生に、どうも下座の行が足りないように見え
る事が屡々ある
。昔からの諺に「能ある鷹は爪隠す」とか、「稔る
程頭を下げる稲穂かな」などという句があるが、何れも下座の行を
いうたものである。


 威張りたがる、偉く見せたがる、物識ぶりたがる、自慢したがる
というように、たがる事は反って逆効果を来すもの
である。少し許
り人から何とかいわれるようになると振りたがるのは
人間の弱点

あって、今迄世間一般の業務に従事し、一般人と同様な生活をして
ゐた者や、社会の下積みになってゐた者が、急に先生といわれるよ
うになると「俺はそんなに偉く見えるのか」というように、最初は
嬉しく有難く思ってゐたのが、段々日を経るに従い、より偉く見ら
れたいという欲望が、大抵の人は起るもの
である。それ迄は良かっ
たが、それからがどうも面白くない。人に不快を与えるようになる
が、御本人はなかなか気が付かないものである。


 神様は慢心を非常に嫌うようである。謙譲の徳といゝ、下座
の行という事は実に貴いもの
で、文化生活に於て殊にそうである。
多人数集合の場所や、汽車電車等に乗る場合、人を押し除けたり、
良い座席に傲然と座したがる行動は、一種の独占心理であって面白
くない


 円滑に気持よい社会を作る事こそ民主的思想の表われであって、
此事は昔も今も些かも変りはないのである。




                  



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