メシヤ教 岡山支部

3、祖霊と子孫について






信仰の手引き
 はじめに---幸福を願って
第一章          
 メシヤ様の御神格
第二章           メシヤ様の御経綸
第三章           信仰の向上を図るために
第四章           浄化作用と再浄化
第五章           霊的知識を深める
1、霊界について
 @ 霊界の構成
 A 守 護 神
 B 霊線について
 C 想念・言霊の世界
2、生と死
 @ 再 生
 A 転 生
3、祖霊と子孫について
 @ 仏壇について
 A 49日までの扱い
 B お盆について
 C お墓について
 D そ の 他
4、御神体・御尊影について
 @ 御神体について
 A 御尊影について
5、「天津祝詞」「善言讃詞」について
 @「天津祝詞」について
 A「善言讃詞」について
 B「惟神霊幸倍座世」について
6、参拝について
 @ 朝、夕拝について
第六章           正神と邪神
《参考文献》





               信 仰 の 手 引 き





             
 


     第五章 霊的知識を深める
             
  


       3、祖霊と子孫について

   「生きている人間は、祖先の延長」

現在、生きてゐる人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋りで、祖先の延長である事を知らなくてはならない。又言ひ換えれば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。無数の祖先の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合ってゐる。丁度、紙風船の糸の形を想像すれば判る。
 故に、祖先が負ふてゐる、諸々の罪穢なるものは、霊界に於ける、その天律的浄化作用によって、その残渣(ザンサ)たる霊汚素(レイオソ)が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが人間の精霊を曇らせる原因である。 (後略)」
         (「病気の原因と其解消」  昭和10年9月15日)



    「善徳を積む事によって、
       祖霊の浄化は促進される」

「(前略)死後の霊魂に対しその遺族が誠意を以て懇ろなる法要を営むとか、又は遺族及び其子孫が人を助け慈悲を行ひ国家社会の為に尽す等善徳を積む事によって、祖霊の浄化作用は促進されるのである。
 右の理によって、親に孝を尽すのは現世のみではなく、寧ろ死後、供養や積徳によって霊界に於ける親に孝養を尽す方が、より大きな孝行となるのである。世間よく「孝行をしたい時には親は無し」−−といふが、之は全く霊界の消息を知らないからである。(中略)」       (「再生」昭和18年10月23日)


「(前略) 死後霊界人となるや、その罪穢の払拭が厳密に行われるのである。(中略)
霊体の罪穢に対し、その遺族が誠心誠意懇ろなる法要を営むとか人を助け慈悲を施し善徳を積む事によって、それだけ霊の浄化は促進さるるのである。此理によって親に孝を竭(ツク)し、夫に貞節を捧げる等は、現世よりも寧ろ死後に於ける方がより大きな意味となるので、慰霊祭などは霊は非常に喜ぶのである。」         (「霊界の審判」昭和22年2月5日)



    「祖霊供養」

祖霊の供養は、坊さんを招んで拝むのもお寺で拝むのも供養になる
 観音様―光明如来様をお祭りする時、祖霊も一緒に祀るのも供養だが、多くの人を助ける。これが一番供養である。親孝行は死んでからの方が大きい。子孫が徳を積むと大きく祖霊は救はれる。信仰して、神仏を拝むだけでは大した利益はない。神仏の目的は一人でも多く救ふ。幸福にする事である。宗教行為主義で、行為に表はさなかったら宗教の価値はない
 救はれた人が感謝する。それが来るのが大変なものである。(後略)」                (昭和23年)



   「霊を慰めるには、徳を積む事」

霊を慰めるには、霊の事を忘れて他人を救い、徳を積む事で、自分以外の他人を救う事が大事である。」
                 (昭和24年5月4日)



   「霊界で救はれる様に 
      して上げる事は大変な孝養」

(父母なき場合、父母に尽すべき孝養を嫁いでから姑にしろといふ人もありますが――)
それはおかしいですね。そんな位なら霊に孝養を尽したらいい。そしてそれには世の為人の為になる事をして徳を積む事ですよ。ですからね、本当の孝養は死んでからの方がずっと大きいんですよ。生きてる時のは一時的で大した事はないんですが、死んでから霊界で救はれる様にして上げる事は大変な孝養ですよ。永遠の幸福を得るんですからね。だから、姑に孝行しろってのは霊を認めない唯物的なやり方ですよ。本当ぢゃないですね。」     (御光話録16号 昭和25年1月20日)



   「無闇に改宗してはいけない」

「(前略)注意すべきは改宗の場合である。それは神道の何々教に祀り替えたり宗教によっては仏壇を撤去する事があるが、之等も大いなる誤りである、改宗する場合と雖も、祖霊は直ちに新しき宗教に簡単に入信するものではない。恰度生きた人間の場合家族の一員が改宗しても他の家族悉くが直ちに共鳴するものではないと同様である。此為祖霊の中では立腹さるゝものもある。叱責の為種々の御気附けをされる事もある。それが病気災難等となるから、此一文を読む人によっては思ひ当る節がある筈である。(後略)」
        (「祖霊と死後の準備」昭和24年8月25日)



   「祖霊へ対し、出来るだけ、
          食物など供へる事」

「(前略)饌供の食物に就て知らねばならない事がある。それは霊と雖も食物を食はなければ腹が減るのである。そうして霊の食物とは、総ての食物の霊気を食するといふよりは吸ふのである。然し現世の人間と異い極めて少量で満腹するので、霊一人一日分の食料は飯粒三つで足りるのである。従而、饌供された食物は多勢の祖霊が食しても猶余りある位であるから、その余分を配り役が運んで、饑(ヒモ)じい霊達に施与をするのであるから、その徳によって、其家の祖霊の向上が速くなる事である。故に、祖霊へ対し、出来るだけ、食物など供へる事は非常に良いのである。

 従而、祖霊へ対し供養を怠る時は、祖霊は飢餓に迫られ、やむを得ず盗み食ひをするやうになるので、其結果として八衢から餓鬼道へ堕ちるか、又は犬猫の如き獣類に憑依して食欲を満たさうとする−−それが畜生道へ堕ちる訳である。然るに、人霊が畜生へ憑依する時は、漸次人霊の方が溶け込み、遂に獣霊と同化して了ふのである。此人獣同化霊が再生した場合、獣となって生れるのである。然し乍ら、これは真の獣霊と異るのは勿論で、馬犬猫狐狸等の動物の中に人語を解するのがよくあるが、これ等は右の如き同化霊である為である。(後略)」
          (「霊界の構成」昭和18年10月23日)



    「祖霊と本教信徒」

教団へ入ってくるのは祖先でも大先祖が多い。その家の娘が大先祖などの場合がある。養子取りや、子のない時養子をとる時など、先祖が霊線を辿っては霊界で候補者を探す。そして産土神の許可を受ける。それで結ばるるのである。」
               (昭和23年10月24日)



 「メシヤ教信者の先祖はみんな働いている」

「(前略)救世教の信者の祖先というのは、みんな救世教の本部とか支部に霊が来てますからそれでよいのです。此処なら此処がもう天国になっているのだから、そこでみんな非常な活動をして働いているのです。だから仏教の方で救われたのと違います。仏教の方の極楽の霊というのは、私が前に霊をやっていた時に霊から言われるのは、極楽というのは楽は楽だが、働く必要がないからつまらないと言うのです。自分は働きたいから、神様の方の世界に行かしてもらいたいという事を幾度も聞きました。極楽というからして、極く楽は楽なのですが、活動という事はできないのです。ですから年中歌舞音曲をやり、碁将棋をやってますが、そういう事が好きな人はよいですが、働く事が好きな人は困るのです。救世教信者の先祖というのはみんな働いてます。その霊というのは何十万何百万と大変なものです。(後略)」    (御垂示録26号  昭和28年11月1日)



  「祖霊の戒告---子孫に対し
        犯した罪穢の払拭を行ふ」

「元来祖霊は我子孫に対し幸福である事を欲するあまり不幸の原因である過誤や罪悪を行はしめざるやう常に警戒してゐるものである。然るに其子孫が偶々悪魔に魅入(ミイ)られ、天則違反の行為ありたる時、それを戒告する為と、犯した結果としての罪穢の払拭をさせようとするのである。それ等の方法として、病気又は其他の苦痛を与へるのである。之に就て二三の実例によって説明してみよう。

 幼児又は小児が、感冒の如き熱性病に罹るとする。普通の浄化作用であれば、本療法によって効果顕著であるに拘はらず、予期の如き効果がない事がある。其場合、特異な症状としては、頻繁な嘔吐である。如何なる食餌を与へても吐瀉(トシャ)してしまふ。従而、衰弱日に加はり、畢に生命を失ふ事になるのである。そうして此症状は、殆んど助かる見込はないといってもいいのである。

 之は全く、右に説いた祖霊の戒告であってその原因としては、父親が夫婦の道を紊(ミダ)したる罪による事が多いのであって、世人は此事を知らないのであるが、注意するに於て尠からずある事を知るであらう。全く一時的享楽の為、大切なる愛児の生命をまで犠牲にするといふ事は、国家の為、自己の為、洵に遺憾の極みであるが、之は全く霊的知識がない為である。斯様な場合、祖霊としては一家の主人を犠牲にする事は一家の破滅となるから、止むを得ず子女を犠牲にするのである。

 次に、斯ういふ例があった。それは或家庭での事であるが、その家の現戸主である四十才位の男、仏壇があるに拘はらず、それに向って手を合した事がないので、その娘が心配し、右の戸主の弟と相談の上、弟の家に移したのである。然るに、程経て弟は兄の家に赴き、祖先伝来の仏壇を弟に確かに移譲したといふ證明書を書いてくれ−−と兄に要求したのである。そこで兄は承諾し、筆をとって紙に書かうとする刹那、突如その手が痙攣を起し舌が吊り、書く事もどうする事も出来なくなったのである。

それから一二年間、あらゆる療法を受けても治らない為、私の弟子の所へ治療を求めに来、其際右の娘が語ったといふ事を、弟子から聞いたのである。之は全く祖霊が正統である兄の家から、一時的ならいいが、永久に離れるといふ事は承知が出来ないからそうしたのである。何となれば、右のやうな結果として、将来家系が紊れる事になるからで、家系が紊るれば家が断絶するといふ危険があるからである。

 次に、世間よく宗教的病気治し又は行者等が、大抵の病気は祖霊の憑依のやうに言ふ事があるが、誤りも甚だしいのである。何となれば、祖霊と雖もその意志感情は、現世の人間と変りはないのであるから、常に子孫を愛し、子孫の為を思ふのは勿論である。従而、子孫の行為の愆(アヤ)まれる場合、戒告等の為、やむに止まれず憑依するのであるといふ事を知るべきである。」      (「祖霊の戒告」昭和18年10月23日)



  「本教の信徒こそ神界へ行く事が出来る」

(本教信徒の祖霊は神界に入る事を許されませうか。許されます場合その順序は如何様でせうか。)
 これは少し本教を侮辱してますね。本教の信徒こそ神界へ行く事が出来るんですよ。他の信仰でも行けない事はないけど、手数がかゝって仕様がないんです。この信徒だと非常に簡単に神界へ行けるんです。この事は大事な事だからよく認識しなくちゃいけない

 神界へ行く場合、祖霊はもう霊界に行って居て仕方がないから、今残ってる家族とか縁の繋ってる人が人を助けて徳を積みいゝ事をすればするだけ祖霊は早く神界へ行けるんです。その順序は、祖霊が地獄に居れば地獄から八衢へ、次で八衢から神界へと上って行くんです。その時各界に階段が夫々六十段づつあって合計百八十段に分れてゐるんです。更に六十段が二十段づつ三つに分れてゐて、それをだんだんに上って行くんですよ。」           (御光話録17号  昭和24年)



  「信者の想念と信仰の正否によって
           祖先の霊が救われる」

「(前略)現界に於ける御奉仕やその他の事に対しての順序や行り方をハッキリ云っており、道理に外れた事は許されない事である。従って信者の想念信仰の正否によって、生きてる人間が救われるばかりか、霊界に於ける祖先の何百何千人の霊が救われるのであるから、大いに戒慎すべきである。」
           (「霊界の現在」昭和28年3月11日)



   「死んだ霊を救ふのも大いに肝心」

「(前略)生きた人間を救ふのも肝心ですが、死んだ霊を救ふのも大いに肝心ですよ。実はその方が一層肝心ですよ。人間はなかなか理屈なんか言ってゝ判りませんが、霊の方はすぐに判りますしね。そして霊は一瞬にして何処へでも行けますからね。それで人にかゝって教へるんです。かゝってと言っても神憑りとは違って、そういふ気持にさせるんですよ。
救はれた霊が働きかけると、「どうも観音教ってのはいゝ」なんて言ふ気持になって来てね、その中に「観音教はいゝんだ、とてもいゝんだ」っていふ風にさせますからね、霊を救ふ方が大きいんですよ。(後略)」
           (御光話録11号  昭和24年8月21日)



   「子孫の浄まる光で祖霊浄まる」

(何代も前の祖先の浄化されていない霊魂に対する御救ひの正しき方法をお教へ下さい。)
 子孫が入信して人を救ふその徳によりその人の霊が浄まる浄まると光が出る霊線を通じて祖先が浄まる。そうして祖先が霊界で救はれるのをみると、先を争って導き、入信する
 霊界では今審判が決まるので、焦って入信したがる。霊が宣伝しているのである。」       (昭和24年1月6日)



 「お寺との付き合いなども今まで通りに」

「(前略)今までお寺ならお寺でやってお寺参りにも行っていた者が止めてしまうという事は、救世教が誤解されるのです。ですから今までどおりやっていた方が世間体もよいし、坊さんも喜びます。今までどおりにしている方がよいです。私もお寺には附け届けをするし、今までどおりにやってますが、やはり喜びます。キリスト教などでは日曜に教会堂に行っても差し支えありません。そうするとキリスト教の牧師も、救世教は非常によい、信者をとる事はないからと好感を持ちますから、それがよいのです。救世教は酷い、信者をみんなとってしまうという事になると、その恨みの想念が多少の煩いになります。そういうものが救世教の敵ではないので、みんなこっちが抱擁しているものの中にあるのですから、良くしてやっておいた方がよいです。キリスト教も仏教も、あらゆるものが救世教の中にあるのですから、それをやっつけたり叩いたりするという事は、やっぱり自分の中にあるものをやるという事はないです。やっぱり眷族というように思っていればよいのです。(後略)」
            (御垂示録26号  昭和28年11月1日)





                                      



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