メシヤ教 岡山支部

1、因縁使命の自覚






信仰の手引き
 はじめに---幸福を願って
第一章          
 メシヤ様の御神格
第二章           メシヤ様の御経綸
第三章           信仰の向上を図るために
 1、因縁使命の自覚
 2、幸福になるには
 3、信仰の向上を目指して
 @メシヤ教の信仰とは
 A入信(入会)後のあり方
 B魂の転換、人格の向上
 C利他行の実践
 D下座業の実践
 E浄霊の真価
 F浄霊を取り次ぐに当って
 G社会事業について
 4、感謝報恩について
 @御守護に対する感謝
 A報恩について
 5、御神業の奉仕について
 @奉仕の基本
 A献金奉仕の道
 B先達、側近奉仕者に学ぶ
 6、智慧正覚について
 @智慧を磨く
 A智慧をいただくには
 B御神意を求めて
 7、大乗と小乗
 8、発展、拡大に向かって
 9、何事にも時期がある
 第四章           浄化作用と再浄化
 第五章           霊的知識を深める
 第六章           正神と邪神
《参考文献》





               信 仰 の 手 引 き





              



    第三章 信仰の向上を図るために

               




 自分自身、メシヤ様とのご縁はどうして出来たのか?
 ご縁を許された私たちは、今後どうして行けばいいのか?

 この事を整理して、自分自身の信仰の原点を明確にさせていただき、何かあった時には、常にこの原点に返り、自分を見つめなおすことが大切です。

 また、自ら、メシヤ様の御教えを学び、日々の生活の中に取り入れ、こつこつ実践して魂を磨きつつ、夜の時代に染み付いた悪い癖を直す努力が求められると共に、人間としてメシヤ様に一歩でも近づかせていただく営みが大切です。

 この章では、自らの使命を自覚して、魂の向上、信仰の向上を図るべく、関連した御教えを学んでいきつつ、利他行と下座行に励みつつ、自分自身を磨いていただきたいと思います。

 昭和29年7月26日、メシヤ様は側近奉仕者へ対し、

『現実の破壊と創造は日々世界各地に於て行われている。将来、腰を抜かすような大きな経綸が行われる時、天地上下は引っ繰り返るのである。その時のために少しでも徳を積み、美しき行いをしておかなければならない。天地が引っ繰り返る程の大浄化が起きた時は、信者でも残るのは2割位は難しいであろう。しかし、本当に改心し、善徳を積めば、その大峠も易々越せるのである。昭和29年6月15日から本当の世界歴史が始まったのである』

と仰せられました。
 そして、昭和29年8月8日に、メシヤ様は、

如何なる奉仕でも、誠と気配りが出来ぬ者は、御用に使うわけにはいかぬ

と仰せられ、さらに昭和29年9月28日、側近奉仕者のちょっとしたミスに対して、

『お前たちは知らないだろうけど、救世教の信者でも最後の審判によって残される者は少ないんだぞ。それなのに、そんな気持でいたら、亡びるよりほかにないではないか救われたいのなら、もっと心を入れかえなければならない

と話され、奉仕者は心から御詫びを申し上げたということですが、当時の側近奉仕者の多くは、メシヤ様からお叱りいただくことが多く、この御詫びの域を出ることが中々難しかったようであります。
 
 このことからも、心からの改心奉仕に臨む姿勢が非常に大切であることが理解できると思いますし、心からの改心の表れが奉仕であり、その奉仕に誠と気配りが表れてないのは、心からの改心が出来てないということになるのではないでしょうか。

 また、お詫びを申し上げるという事は、「同じ過ちは二度と繰り返さない」という強い決心、決意が重要であり、必要だと思います。神様は、全てご存知なのですから・・・。
 
 それでは、次の項から因縁使命の自覚について学んでいきましょう。

     
1、因縁使命の自覚

 ところで、メシヤ様ご自身の夜昼転換がこの御神示を受けた昭和
元年の12月とするならば、
私たちにとっての夜昼転換は何時でし
ょうか?

 また、そういう転換の時期はあったのでしょうか?

 もしそのようなことが今までになかったとしたら、折角メシヤ様
との出会いを許されていながら、大変残念なことです。


 その原因は様々ありますので、一概には言えませんが、そのよう
な場合、他人に責任を転嫁せず、もう一度自分自身に返して、自分
の誕生から、入信に至るまでの経緯、そして現在の自分という、現
在まで歩いてきた道のりをふり帰り、整理
していただければ、問題
解決の糸口が見出せるものと思います。


 私の場合、メシヤ様とのご縁は幼少期にまで遡りますが、皆さん
はいかがでしょうか?


 初めてメシヤ様のご浄霊をいただいた時、または御教えに触れた
時、または、入信した時でしょうか?その時、私たちは何を感じた
でしょうか。

何かしら言葉にならないある不思議な感じを、または心に引かれる
何かを感じたのではないでしょうか。それとも、自分の意思とは裏
腹に、入信してしまったのでしょうか?


 このようなことを一度整理してみていただきたいと思います。

 私たちの身の周りには、いくらメシヤ様のことを伝えても分から
ない人が多くいることを思えば、メシヤ様と自分との関係には何か
目には見えない不思議なものがあると思います。


 何故、浄霊力伝授を受けたり、入会したりしたのでしょうか?
 そこには、目には見えない不思議なものが働いていると思いま
す。その不思議なものとは?一体・・・。


 また、浄霊力伝授を受けたり、入会したりした後の私生活
は、・・・以前と少しずつでも変わっているでしょうか?。

 このような事も含めて学んでいきましょう。



  「身魂の清まった者に、
      因縁通りの御用を申し付ける」

(前略)一月三日、明主様には、「今の私の現在の御用は万神の働
きを全部私一人でやっている
のだ。なぜならば、みんなの身魂が清
まらざるため
に、一切はそれまで皆私がやっているのだ。いよいよ
の時初めて諸々の御用を申し付ける。身魂の清まった者から各々の
因縁によって、その人その人に、それぞれに因縁通りの御用を申し
付ける
。その時、初めて因縁ある者に諸々の御用が頂戴出来る」
だとの御話がありました。なお又
「その人その人により、神格をも
頂ける
のだとの御言葉でありました。(中略)
 一月九日、(中略)明主様には「神様を信じることは良いが、人間
を信じてしまってはいけない
。人間には間違いがあるから、ただた
私の命令をそのまま行えばよいのだ。」と、大変有難い御言葉を
頂き、誠に有難いことでありました。(後略)」
   
                     (明主様の御眼力(十)岡庭真次郎)


 このように述べられていますが、「人間を信じてしまってはいけ
ない」
という所を、教団あるいは執行部に置き換えて考えていただ
ければ、いいのではないかと思います。


 そして、「私の命令をそのまま行えばよい」ということは、御教
え通りにするということであり、教団から出る方針が御教えに照ら
し合わせて、御教え通りであれば間違いないと判断して方針に従う
という事が大切なことではないかと思います。


 読者の皆さんは、どのように考えられるのでしょうか・・・。



  「一生懸命にならなくても大光明世界は出来る」

「(前略)天地が崩れても出来る。邪魔しやうと何しやうと大光明
世界は出来る
そして全世界は統一される。人類始って以来な
い結構な事になる。それが何百年、何千年先の事ではない。昭和三
年から三十年間といふ。之で大体大光明世界の基礎が出来る。(中
略)


 只今から世界は一歩々々そうなって行く。その時はすべてが非常
に結構な事になる。
皆が一生懸命にならうとなるまいと出来る。た
一生懸命にならぬと置去りにされる代りはいくらでもある
の人がグズグズすると、此人がするといふ工合になり、折角自分が
役になり、結構な使命をいひ付けられても、お代りが出来る
そう
すると
永久に取残される
訳であります。もしか疑はれるならば、や
ってみられるといいのであります。兎に角
結構な空前の大事業に携
はらして戴く、此位幸福な事はない
のですから、取残されぬやうに
すればいいと思ひます。

観音様は難しい無理な事は仰有らぬ喜んで愉快に出来る事しかや
らされぬ。


 今迄世界の凡ゆる大仕事など、皆非常な苦心惨澹した。今度の仕
事はそうではない。苦心惨澹したら出来ない。ボンヤリしてブラブ
ラしてゐても出来ぬ。例えば、飯を食ふにも茶椀と箸をとる位の事
はしなければならぬ。それだけの手順は尽さなければならぬ。(中
略)

 どういふ事を一番気を付けなければならぬかといふと、お祭りや
講話会に御無沙汰する事がいけない
。それをしないと決してうまく
ゆかない。いざといふ時に間に合はないからお取替えになる訳であ
ります。


 それで月に一回以上は本部等へ必ず参る事で、それも難しい事で
ない。他の宗教などは朝の五時頃に起きて行かなければならぬ。一
日一回は必ず行かなければならぬ。そんな強制的な事をせぬから苦
しい事はいらぬ。そして
後は出来るだけ運動をして拡めればいい
今、会員を沢山造らなければならぬ。それも
無理に奨めたりするな
どする事はいけない
気持よく話して先方から進んで信仰に入るや
うにしなくてはいけない
。その点も大いにいい。
 要するに、観音力はどっちか極端になってはいけない。どうして
信仰に入れぬ人は説いてはいけぬ。又信仰に入るやうすすめては
いかぬ
。機会をみてあっさりやればスラスラと入る。 (後略)」  
          (「玉川郷秋季大祭御講話」昭和10年11月11日)



  「これは神様御経綸の直接の御用である」

「(前略)観音会は最奥天国に相応する教である。人の為に働く等は
つまらん等という者は最奥天国でないのであって、此の様な人は又
それ相当の信仰を求めて行く
のである。

 観音会は世界人類の為に働くのであって、自己の栄達等は問題外
であるが、
自己栄達を問題外にして世界人類の為に働くことによ
り、結局自己の道が拓けてくる
のである。之に反して世界人類の為
なんて馬鹿々々しい等と、自己栄達のみに心を傾ける人こそは逆に
落される
のである。世界人類の為に働く事の如何に大きな御用であ
るかは、
神様御経綸の直接の御用であるからである。(後略)」  
              (「人の生死の状態」昭和10年8月15日)



     「神の意図を理解する」

人間が現世に生まれるという事は神の命によるのである。生命の
命は命令の命と同一であるのもその意味であろう。誰しも思う事
は、人間は何が故に生まれたかという事である。この事を真に把握
せざる限り正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生
夢死的人生に終る惧れがある。然らば
神の意図とは何ぞやといえ
ば、
この地上をして理想世界言変えれば地上天国を建設する事であ
る。(後略)」           
(「霊層界」昭和22年2月5日)



 「時の認識こそ、大神業に参加が許される資格」

「(前略)私自身としても未だメシヤとは名のらないと共に、キリス
トの再臨ともいはない、之は
或時期までは神様から発表を禁じられ
てゐるから
でもある、(中略)今日確実にいえる事は、世を救ふべく
大経綸を行ふ
事である、之は現に私が行ひつつある事実を見れば判
る、救世教の名を冠したのもその為である。(中略)

 いよいよ時期熟して世界は茲に一大転換と共に、天国樹立といふ
神の理想実現となった
のである。此事が根本であって、之を深く認
識する事によって初めて大神業に参加され得る資格者となる
のであ
る。」            
(「五六七大祭」昭和25年3月11日)



     「神様が人を入信さす」

入信するには人によって時期がある。時期が来れば入信する。最
後の時期はどうしても入信しなくてはならぬ時である。人によりい
ろいろであるから、それは時期が来ないのであるから、それを待つ
事である。
人間は人を入信さす力はない。神様が人を入信さすので
ある。
人間は橋渡しをするので、手を引くのは神様である。人間は
人間を審判く事が出来ぬと同様で、それだけの権能を与えられてい
ない。

(中略)即ち、時期が来れば入信しなければならぬよう神様が順序を
立ててくれる。又、霊界で祖霊が、沢山救はれているのをみて、自
分の子孫に対し入るように種々する
。であるから私の方では宣伝し
たり、新聞雑誌には出さない。霊界の
霊の働きが一番力がある。」
                        (年代不詳)



     「入信の時期も遅速がある」

「(前略)その人それぞれの罪の軽重、因縁、使命等によって、入信
の時期も遅速がある
から、総ては神様にお任せしていればいいので
ある。(中略) そこで
何より心得べき事は、信仰の根本は本人の自
由意志であって、止むに止まれぬ信仰心が湧くのが根本
である。そ
れを何でも彼んでも無理に分らせようとするから逆効果となり、反
って入信の時が遅れるのである。これに就いて一番知らねばならな
い事は、世の中の事は二二が四ではいけない。二二が、六、二三が
七というように、理外の理のある事を悟るべきで、特に信仰に於て
をやである。つまり何事も結果によって判断すべきで、これが千変
万化、融通無碍の観音行であるから、この理を充分肚の底へ畳み込
んで活動すれば、必ず巧くゆく筈である。」     

            (「御神体奉斎に就いて」昭和29年4月7日)



   「入信する(会員になる)ということは」

「(前略)だから、「三毒、五濁」ってのは人間の罪穢れを分類した
ものですね。そして
之を滅する方法はいゝ事をする事です。いい事
はしないで滅するのだったら苦しむ
んですね。然し、この苦しむ方
は骨が折れる割合に効果が少いんです。

 所が、いゝ事をする方は人に喜ばれ尊敬されて、罪が消えるのも
とても早い
んです。これが信仰ですね。だから、教修を受けて入信
するって事は、穢れを消滅する方法を覚える事と、之を行ふ事を知
るんです
ね。そこで、たゞ教修を受けたゞけぢゃ、まあ受けないよ
りよっぽどいゝけれども、ほんとうに罪穢れを除るにはそれだけで
は十分ではないですね。――」    
(御光話録6号  昭和24年3月)


「(前略)人間の罪悪を分類してある。之(罪穢)を滅する方法は人
を助け徳を積む事
である。苦しむ事――いろんな苦しみにより滅す
るのは、骨が折れて効果が薄い
。然しもっと楽で効果的なのは信仰
で、
教修を受けるのは罪穢を消滅する方法を覚える事である。であ
るから、教修を受けただけではいけない。
罪穢を除るといふのは、
一人でも人を幸福にするとか、導く事をする
のである。(後略)」 
             (「受教修の意義」講補 S24年3月20日)



    「この教えにも因縁、系統で入った」

「(資格者が、自分は罪が深いから尊い御道の御手伝ひをさせて頂
くと考へる事と自分は神より選ばれた人間だと幾分高く評価する考
へ方とはどちらが正しいでせうか。
)
 別に――どちらも正しいですよ。罪が深いから働くって言ふのも
変ですよ。罪の深い浅いぢゃないんです。罪が深いからって言ふん
なら、殺人強盗にもいゝ機関なんですが、(笑声)やはり
因縁です
からね。それから神様に選ばれた人間だと思ふ事はいゝけど、別に
高く評価する必要はありません
よ。無論選ばれたには違ひないが、
それだけぢゃ高い価値はありませんよ。
この教へにも因縁、系統で
入った
んですからね、それから働きがあって非常に仕合せになり、
いゝ地位になったら、それだけ高く評価するのはいゝですけどね。
だから
この信者になったからって、たゞ選ばれたゞけで何もしない
って言ふのは間違ひ
ですよ。」   (御光話録7号  昭和24年4月23日)



       「自分は祖先の延長」

「現在、生きてゐる人間は、自分一個の存在でなくて、祖先の繋り
で、
祖先の延長である事を知らなくてはならない。又言ひ換えれ
ば、無数の祖先の綜合が、個体たる自分である。無数の祖先の霊線
が、自分一個の霊と繋ぎ合ってゐる。丁度、紙風船の糸の形を想像
すれば判る。

 故に、祖先が負ふてゐる、諸々の罪穢なるものは、霊界に於け
る、その天律的浄化作用によって、その残渣(ザンサ)たる霊汚素(レイオ
ソ)が、絶えず現在の人間の精霊へ、流れて来る、それが
人間の精霊
を曇らせる原因
である。その曇りが或程度を越ゆる時、それが病気
となって、肉体へ現はれるのである。(後略)」    

          (「病気の原因と其解消」昭和10年9月15日)



  「ない命を救われたのは、私有財産でなくなる」

「(前略)こういふ事は知っておかなければならない。一度、もう全
然駄目だと言はれた人がこちらによって生き延びた場合、その人の
命は前のものと違ふ
んです。私有財産ではなくなるんです。神様が
必要があって寿命を延ばされたんだから、
神様の御役に立つ仕事を
しないといけない
。この様にして救はれた人が、又金儲けだとか何
だとかいゝ加減な事をやり始めると、その人はきっと駄目になりま
す。

 以前に鉱山をやってゐた人で、心臓が駄目になって死にかけた時
御浄霊ですっかりよくなった。すると、又鉱山の方に夢中になり始
めたので、治してやった人がいろいろ言ひきかせたけれどもどうし
ても聞き容れない。その中に直ぐ又死んでしまったといふ事があり
ましたがね。
之は大切な事です。」   (御光話録6号  昭和24年3月)



  「その人を救うと、その系統の人が救われる」

「(前略)全て、神様は型でやるからして、色々な型がある。(中略)
その型を私は神様から見せて貰うばかりでなく、色んな事をやるん
です。ですから、
小さい事が非常に大きい事になつていくんです。
信者さんが、一人々々居ますが、この中で、一人で何百万、何千万
の型をやつている人が居る。私が最初始めた時、数人の型が集まつ
て、その人達が或民族を代表し、一国を代表し、地方を代表する―
―何億、何千万の代表をしている。だから、以前に私は、イギリス
の型、インドの型と良く言つたものです。その人を救うと、その系
統の人の数が、ずつと多くなつて救われる
その次に、その又一
人々々が救われる。そう言う風に世界は出来ている
神様の経綸と
言うものは、そう言う風にやつていくもの
です。 (後略) 」 
                (御教え集3号  昭和26年10月1日)



  「信仰も自分一人ではない---自分は代表者」

「(前略)神様の型という事は面白いので、ひとりそういつた様なも
の許りでなく、人間がそうなつている。米国人の型、英国人の型、
支那人の型。中にはアフリカ人の型もある訳です。そういう人の一
人々々が信者になつて救われると、それが広がつて――そういつた
型になる訳なんです。それがずつと広がつて一国になる訳です。

(中略)
 そんな様な訳ですから、信仰でも自分一人ではないんです。何万
人何十万人の、自分は代表者になつているから、自分をそう軽く見
る事は出来ない
です。そうかといつて、俺は何処の国の型なんて言
うと自惚れが出ますからね。(後略) 」  

                (御教え集11号  昭和27年6月27日)



    「一人の人間の行動---全世界に響く」

「(前略)神の方に八百万あるやうに、悪魔の方にも八百万あるので
ある。そうして正神は此世界に善を行はんとするに対し、邪神は悪
を行はんとし、常に相対峙してゐるのである。丁度人間の中心に於
本守護神と副守護神と闘争してゐるやうなものである。(守護神
については後に説く事とする)故に正神界からは霊線によって人間
の本守護神に正気を送流しつつある
に対し、邪神界に於ても人間の
副守護神に対し、霊線によって悪気を送流してゐる
のである。此理
によって
一人の人間と雖も、世界的に繋がりがあり、その一挙一動
は全世界に響くものである以上、軽率な行動は出来ない
のである。
(後略) 」            
(「兇党界」 昭和18年10月23日)



 これらの御教えからすると、数多くの人の中から、因縁・系統に
よって選ばれて、神に許されて先祖の働きによって入会させていた
だいていることが理解できると思います。

 またメシヤ様は次のようにおっしゃっています。



  「私は自分から救世主と名乗る事は好まない」

「(前略)救世主即ちメシヤなる言葉は、洋の東西を問はず、時の古
今を問はず、如何に言ひ古された事であらう。全人類待望の救世主
なる超人間的力の持主が、現実に此世の中に生れるべきものであら
うかといふ事であるが、一部の宗教信者を除き、世界の大多数者
は、単なる理想的希望でしかない、大きな夢でしかないと思ってゐ
ると見るのが間違ひない事であらう。尤も俺は救世主だと誇称する
人も稀にはあったが、時の推移と共に何れも消えてしまふにみて
も、未だ真の救世主は表はれない事は明かな事実である。


 私は自分から救世主と名乗る事は好まないのである、といって救
世主ではないと断定する事も出来得ないといふのが偽らざる告白

ある。実に救世主出現といふ事程重大なる問題は、人類史上曽てな
い事は今更いふ迄もない。此意味に於て決して軽々に論議すべきで
はない事も勿論である。飜って考ふるに、救世主出現は単なる人類
の理想と極める事も出来得まい。何となればキリストの再臨もメシ
ヤの降臨も、ミロク下生も、往昔の聖者が予言してゐるに於てをや
である。故に、何時かは出現の可能性がある事を信じない訳にはゆ
かないのである。


 之から私の心理描写にとりかかるのであるが、私は救世主の第一
条件
として以前から考えてゐた事は、何よりも先づ人間の病気を解
決する事
であって、人間の健康を完うし天寿を得させるといふ事の
絶対的方法を授けると共に、それへ具体化する力を有する−その資
格こそ救世主としての最大要素
であらねばならない。勿論肉体の健
康と相俟って、精神の健康が伴はなくてはならないのである。


 ナザレの聖者キリストの曰った、「汝世界を得るとも、生命を失
へば何の利かあらん」といふ有名な言葉によってみても明かであ
る。此意味に於て、人類から病気を滅消し得る力のない宗教も、宗
教家も、その価値は限定的のものしかない
といえるであらう。私は
此理論を常に抱懐してゐたのである。然るに、
私が信仰生活に入っ
て十数年を経た頃の或日、病気の根本原理と、その解決法とを知り
得た
のである。嗚呼、其時の私の驚きと喜びは、何人も想像はなし
得ないであらう。何となれば今日迄の世界の人間のうち、之程大き
な発見をしたものは絶無であったからである。如何なる大発見も大
発明も、此事に比較すれば問題にはならない。実に私といふものは
何たる不思議な運命を持って生れたものであらう。」 

              (「救世主は誰だ」昭和23年10月20日)



 メシヤ様自身、「不思議な運命を持って生れた」と、おっしゃっ
ておられます。そして、メシヤとして御力を揮いになろうとする時
に、そういう時にこの世に生を受けメシヤ様に繋がり、これから何
をなさなくてはいけないのか?どのような心構えで何を進めていく
のか?

 そういったことに対して、次のようにおっしゃっておられます。



 「ミロク世界実現前、当然
   経なければならない其過程に対処する心構え」

「吾等が唱える五六七世界の実相は目下執筆中で、何れ発表するつ
もりであるが、茲では五六七世界建設までの過程に就て些か述べよ
うとするのである。

 勿論、五六七世界とはキリストの予言した天国であり、釈迦の唱
えた所謂みろくの世である。然るに此理想世界たる五六七の世は、
今や呱々の声を挙げんとする寸前に迫っている
事である。


 私の霊感によれば、今霊界に於ては既に五六七世界の土台は築か
れた
のである。之によって近き将来、いとも現実的に此地上に出現
する事は、疑う余地はない
のであるから、何と有難い時節に生れた
ものではないか。之を慮う時、吾々は歓喜が湧き起るのである。


 それに就て知らねばならない事は、例えば今茲に一大豪壮な建築
物を建造せんとする場合、今迄その土地に存在していた古い家は破
されなければならない。勿論その古材の中から、新建築に役立つ
ものを選び、洗い浄め、削り治して使用する
事は勿論であって、今
五六七世界建設に当っても、それと同様な事象が行われるであろ
う。


 それに就て今後発生する凡ゆる事態が、人間の眼からみて理屈に
合わないような事や、無益と思う事、破壊的の事等もあるかも知れ
ないが、それは汚穢の一大清掃である事を知らねばならない
。然し

一切は神意の具現である以上、人間の凡眼によって、兎や角判断す
る事は出来ないとすれば、人間たるもの
大いに謙譲の態度を以て、
一切の推移に順応すべき
である。此事を霊感によって知識し得た吾
等は、常に偉大なる神意を曲解せざるよう戒意し、正しい神観を以
て今後人類の経験にない、如何なる異常事や崩壊作用も、
信仰に徹
する者の特権
として与えられたる安心立命の境地に住し、生を楽し
みつつ時を待つ
べきである。
 斯様な甚だ掴み所のない言い方も、深遠なる神の密意は現在具体
的に言う事を許さないからである。

 要するにミロク世界実現前、当然経なければならない其過程に対
処する心構えを述べたまでである。」   

             (「五六七世界の建設」昭和25年1月30日)



 この中で「大いに謙譲の態度を以って・・・」とありますが、こ
のことについては、次のように御教えいただいております。




   「お使いいただけることに感謝する」

「(前略)ですから観音様の御都合により、その時の仕事の上におい
て誰を使ふか判らぬ。今後と雖も観音様は必要があれば誰でも使
ふ。もし使はれた人が、俺がこうであるから使はれたとか、俺がど
うだからと思ふと間違がある。観音様から斯ういふお見出しに与る
といふ事は、
一生涯の光栄で、それに対しては唯感謝より外何もな
。感謝して有難いと思へば後又使はれる。少しでも自分がやった
と思ったら観音様はもうお使ひにならぬ。


 此点は大変重大な事で、観音会がだんだん発展する上に於いて
も、観音様は非常に和らかくて厳粛で、
沢山な人を呼び寄せては、
一人も残らずお試しになり、すぐりにすぐり此人はといふ人だけ残
し、そういふ人達で固めて建設される
ので、実にその点は大磐石
で、たゞパッと拡げない。世間ではよく形だけみせるやうにする
が、こういふ行り方は非常に観音様は嫌はれる
。場当りのいい或一
時的の仕事などはなさらない。要するに
真実で飾り気のない事、人
間のやうに衒ひも何もない。本当のお試しとは、
自己といふものを
全然みない
。本当に世界人類を救はなければならぬといふ止むにや
まれぬ状、また此の世の中の状態をみて、実に哀れだ、可哀相だ、
見てはをれぬ、然し人間の力ではどうする事も出来ぬ、然し観音様
が観音力を揮はれるにつき、その一部にも加へてもらって、そして
力限りやらして貰ふといふそれだけで、そこに名誉心などがある
と、反対の結果になる。


 こういふ様に、一寸考えが違ふと、大きい違ひが出来る事にな
る。
どこまでも自分の存在に無関心で、世の中や観音様の為と思ふ
と、その人の存在は大きい存在となる。之は生長の家の物質は心の
影といふのと似てゐる。自分を見せやうとすると空虚になる。世の
人の為と思って自分を無視すると、無視した自分が立派に存在す
る。ここの道理のはっきり判った人は、本当の働きが出来る
。神の
道がある。自分の都合よくなりたい、よくしたいといふ念が、少し
でもあるとすれば、物が思ふ様に行かぬ。


 自分を空虚にする、自分を無視すればする程、自分の実在は確か
になる。
此点だけが肝腎な悟り
で、此前お話したが、お釈迦様の時
代に目連尊者といふ人がゐて、母が地獄で苦しんでゐるのが見える
ので、どうか助けやうと思っても助からぬ。他の人はいくらでも助
かる。で、お釈迦様に、お母さんを出さうと思ふが、どうしたら地
獄から出せるかと聞くと、お前のお母さんはお前が忘れればいいと
いはれた。そこで考へた結果、はっと思った。


 俺は天下万民を救ふ使命によって働いてゐるのに、自分の近親の
者親の事ばかり思った為救へなかった。大変な間違ひをした。第一
に天下万民を救はなければならぬと、それからは母の事も忘れ、一
切衆生を救ひの為活動して、一年経って地獄を覗いてみると、もう
地獄には母は居なかったといふのであります。

 自分を良くしたいと自分だけよくしやうとすると、先づそうなさ
なければならぬ。
人をよくしやう、人を助けやうとする時に自分は
よくなる。

信仰の妙諦はここだけなんであります。(後略)」  
                 (「御講話」 昭和10年8月11日)



 特に「信仰の妙諦はここだけ」とおっしゃっておられます。自分
を出さず、心を無にしてということは
「我」を出さず「素直」に、
身の回りに起きてきた事に対して対応していく、実践していく姿勢
が大変重要です。


 人それぞれ長所もあれば短所もあり、特徴も違えば能力も違い、
十人十色ですから、自分に合った考え方、進め方、御用の仕方があ
るものです。そのことについてメシヤ様は、次のように御教え下さ
っています。




  「その人に与えられた能力によって御用は違う」

「(資格者と致しまして、人を救う事、信仰の向上を図る事、御奉
仕とを如何様な順序に考えましたら宜しいものでございましょう
か。又金銭物質の御奉仕の意義、方法につきましてお伺い申し上げ
ます
)

 恐ろしい質問だね。それは、どっちが肝腎だという事を考えるそ
の事が間違ってます。そういう事は考えないのが本当です。という
のは、
神様はその人の使命、その人に与えられた能力によって人を
救う御用をする人もあるし、お金の御用をする人もある
のです。向
上は全般ですが、各々その使命があるのです。というのはそういう
事情になって来るのが使命ですから
、そうなったらそうすればよい
のです。

 金が集まって来て、人を浄霊するよりもというのは、そういう使
命があるのです。又金がない、信者を沢山作るというのはそういう
使命があるのです。それは周囲の事情がそうなって来ますから、た
だ素直にそのままを考えて進んで行けばよい
のです。それから
向上
という事は、一番の事は智慧正覚
です。いろんな事が分る事です。
分ると言っても間違った分り方ではいけません。


 その標準は御神書です。御神書に書いてある事が大体"なるほど"
と思えれば、それは智慧正覚が大分上がっているのです。"どうも
分らない"というのもあるし、その時はなるほどと思っても、家に
帰れば忘れるというのもあります。いろんな事がフッと分るのは智
慧正覚が向上しているのです。病状をみて、この人はこの病気だと
いう事を当てれるのは、余程智慧正覚が上がってなければならない
です。だから以前は五つ分ったが、この頃は六つ分る、七つ分ると
いうのなら智慧正覚が向上しているのです。」 

                (御垂示録22号  昭和28年7月1日)



 「こっちで思っても駄目な人は駄目なので、
            諦らめるという事が肝腎」

「(前略)つまり神様の方が激しくなるわけです。大本教のお筆先に
"神激しくなれば、人民穏やかになるぞよ"というのがありますが、
なかなかうまく言ってあります。そういうようなわけで、曖昧(アイマ
イ)であったのがはっきりしてくる
というわけです。


 だから分る人は救われる人で、分らない人は滅びる人と、こうい
う工合にだんだん決まってくる
のです。ところが分らない人の、滅
びる方がずっと多いのです。ですからどんな人でも救われると思う
人が、今までは大部分でしたが、そうではないので、
救われる人の
方が少ない
のです。ですから救ってやりたい救ってやりたいと、こ
っちで思っていても駄目な人は駄目なので、諦らめるという事が肝
です。それでミロクの世という素晴らしい世の中ですから、あん
まり汚ない、訳の分らない人間は、かえって邪魔になる
わけです。
神様の方では人口を増やすのは何でもないのです。今でも増え過ぎ
て困るのです。ですから倍くらいにするのは何でもないのです。
又、将来その方が有利です。捨てられて滅びる人は実に可哀想なも
のですが、これはどうも仕方がありません。ですから、その点をよ
く心得ておくべきです。


 これは何時も言うとおり、今度の御神業は、人がやるのでなく
て、神様がやるのですから、骨を折らなくてできる御神業
です。で
すから骨の折れるような難かしい事は避けた方がよいです。楽にス
ラスラと行く事だけをやればよい
のです。だからかえって楽で非常
によいです。
そこが天国を造る宗教としての適ったやり方になるわ
けです。今までは地獄の中で天国を造ろうとするのですからして、
まだまだ天国を造る時が来てないのです。地獄の中で天国を造るの
だから、苦心惨憺(サンタン)して非常に骨が折れるのです。人間はそう
いうのを長い間見て来ましたから
どうしても苦しむ事がよいよう
に、つい思う
のです。だから今言ったような事を本当に意識するに
は、なかなか骨が折れますが、その点はよく気がつくように心掛け
て居なくてはいけません。(後略)」 
(御教え集23号  昭和28年6月7日)



  「どっちが世の為になり、
     多くの人が幸福になるかを考へて・・・」

「(私は数年前御守りを頂き職業(漁師)の傍ら御救ひの御手伝ひ
をさせて頂いて居りましたが、最近御救ひの方が多忙になり殆ど漁
師の方は出来ません。そこで御道一方だけで進みたいと思ひます
が、家族や親類が強く反対して居ります。如何致したら宜しいでせ
うか。
)

 こりゃあ、御救ひ一方にしたがいゝですよ。家族や親類の反対は
全然構はなくていゝですよ。それにこの人は「御救ひの方が多忙
だ」って言ふんだから。

 私がそうでしたよ。皆反対だったんですが、私は頑としてそんな
のに耳を傾けずにやってた
んです。実際、
この位立派な、いい事は
ないんです
からね。魚をとって人に喰はせるよりか、この方がいゝ
ですよ。漁師をやる人は他に沢山あるんですしね、これで人を救っ
た方がどんなにいゝか判りませんよ。――職業を選ぶ場合だってそ
うですよ。どっちが世の為になり、多くの人が幸福になるかを考へ
て、こっちの方がいゝと決ったら、誰が反対しようとどんどんやっ
てくんですよ。私だってそれで押し通したんです。よく、
当局が調
べるとか、弾圧されるとか、医師会が妨害するとかいろいろ聞きま
すがね、私はそんなの何とも思ひません
よ。何故って、私のやって
る事の方があっちでやってる事よりずっといゝんですからね、それ
を止めようとするのは悪いんです
。正しい神様が居られる以上悪が
勝つなんて事は絶対にないんですからね。


 それから又、こっちが確固たる信念を持ってると反対者はなくな
もんですよ。反対者があるとか、いろいろ妨害されるのはこっち
に未だ隙がある事も多い
んです。いくらかでも迷ひとか弱い所なん
かゞあると、そこを狙って――やはり霊ですからね、邪神が邪魔す
るんです。こっちが十が十決心して隙がなければ、邪神はどうにも
出来ないんです。

 そうなると反対する者も諦めますよ。そしてその中に「あゝあれ
は成る程いゝんだな」っていふ事が判って来て、お辞儀をして来た
り、賛成したりする様になるんですから、この人も家族や親類の反
対なんかにはビクともしないでやっていゝですよ。」 

                    (御光話録17号  昭和24年)






                                    



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